秋芳洞(あきよしどう[1])は、山口県美祢市東部、秋吉台の地下100-200mにある鍾乳洞で、約1kmの観光路をもって公開されている。鍾乳洞としては日本最大規模。洞奥の琴ヶ淵より洞口まで、約1kmにわたって地下川が流れ下っている。1990年前後の洞窟探検家による琴ヶ淵から奥への潜水調査の結果、東方約2.5kmにある葛ヶ穴まで連結し、総延長は8,850mに達した。
2016年7月からの山口大学洞穴研究会と秋吉台科学博物館でつくる「秋吉台カルスト洞窟学術調査隊」の測量調査によって総延長は10,300mに伸び、現在日本第3位にランクされている[2]。
1926年以前は滝穴(瀧洞)と呼ばれていた。特別天然記念物。秋吉台国定公園に属する。秋吉台国定公園の秋芳洞を描いた切手(1959年) 洞口に滝があるために古くから「滝穴」と呼ばれていたが、1926年(大正15年)5月30日、東宮(当時25歳の大正天皇皇太子。後の昭和天皇)が行啓の折、この鍾乳洞を一時間かけて探勝(予定を40分超過)[11][12]。昼食時、「滝穴」の名称について話題となる[13]。東宮が質問したところ、時の山口県知事大森吉五郎は、以前から称え伝えた名称であり、その所在地の者がかく称えていたと回答。すると時の内大臣牧野伸顕から「滝穴」とは何だか名実相伴しない観があるから何とか名称をつけかえたらよかろうとの提案があった。
沿革
1354年、大干ばつに際して大洞寿円禅師が洞内で雨乞修法を行い、満願三七日目の豪雨による洪水に入寂したのが開山とされる[3]。
1729年に描かれた地下上申絵図(秋吉村)に滝ノ口、弘谷滝、稲川の名が見られる。
1830年、1843年の旱魃に際して地元民が大挙して洞奥を探ったといわれる。
1844年頃に編纂された防長風土注進案には、秋吉村の名所旧跡の項、滝穴中に千畳敷や高桟敷の語が見られる。地元民が大勢して奥まで入るとも記されている[4]。また流れ出る川について、「秋吉台の上流の村で秋に刈り干していた稲が大雨で流失し、ここへ流れ出た。そのため以前は滝川と呼んでいたが、今は稲川という」との記述がある。
1843年、1847年、萩の医学館の者数名が石薬の鍾乳石を採取のために滝穴と蝙蝠穴へ訪れた[5]。
1862年に刊行された美祢郡細見絵図中に、滝穴ノ中ニ三十二景アリとの付記がある[6]。
1898年、内務大臣による名勝旧跡に関する調査の指示が行われたが、保存については見込みなしとの報告が行われた。
1904~1905年頃、英国王立地理学会員エドワード・ガントレット[7]により洞内渡し船が寄贈された。
1907年、鉱山業者梅原文次郎の依頼によってガントレット、広島高等師範学校教授中目覚らが調査した。当時は地元では「水神のすみか」と伝えられており、誰も近づかなかった[8]。
1908年、大阪時事新報の一記者が初めて今の黒谷支洞の底を探り、また中目覚が琴ヶ淵までの全容を明らかにした。
1909年、ガントレットが英国ヨークシャーの紀行誌に瀧穴の概念的平面図を紹介した。
1909年、梅原文次郎により観光洞として開発され、盛大な開窟式が行われた。
1920年、内務省天然記念物調査団により初めて詳細な測量図が作成された。
1922年、国の天然記念物に、1952年、同特別天然記念物に、1955年には国定公園に指定。
1922年、天然記念物主務大臣より秋吉村による管理を命じられる。1923年には、秋吉村による管理と経営を開始した(それまでは広谷部落による)。
1925年、電灯による洞内照明を開始。
1926年、東宮行啓後、思召により滝穴から秋芳洞へ、また洞内の6名所の名もあわせて改名された。
1951(or 1952)年に長淵に桟橋ができ、渡し船が廃止された。
1956年、12月1日に台上への観光客誘導のためエレベーターが運転開始となった[9]。
1960年、水銀灯等による大規模な洞内照明を開始。
1962年、3月21日と25日に洞奥の琴ヶ淵で太田正道、杉村昭弘による日本最初の洞窟潜水探検が行われた。
1963年、黒谷支洞奥から矢ノ穴ドリーネへ通じる隧道が竣工した。
2005年、他の2つの鍾乳洞、景清穴、大正洞とあわせ、秋吉台地下水系という名称でラムサール条約登録湿地となった[10]。
2007年、秋吉台とともに日本の地質百選に選定された。
2015年、「Mine秋吉台」として日本ジオパークに選定された。
名称について