秋篠寺
本堂(国宝)
所在地奈良県奈良市秋篠町757
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42分11.38秒 東経135度46分32.32秒 / 北緯34.7031611度 東経135.7756444度 / 34.7031611; 135.7756444 (秋篠寺)
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある単立の寺院。山号はなし。本尊は薬師如来。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。
歴史奈良時代の秋篠寺の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)
寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺ともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。
宝亀7年(776年)、皇后の井上内親王と、その子で皇太子の他戸親王を廃して死に至らしめた光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいうが、これは鎌倉時代の文書に見えるものである。文献上の初見は『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。創建時は法相宗の寺院であった。『日本後紀』によれば、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、皇室とも関連の深い寺院であったことがわかる。
秋篠寺は平安時代になると真言宗寺院となり、平安後期からは寺領を増大させて南に位置する西大寺との間にたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。
保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である[1][2]。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉によって寺領100石が安堵される。
明治時代以降は浄土宗に宗旨を変更していたが、現在は単立寺院となっている。
南門の外にはかつての鎮守社・八所御霊神社があり、早良親王など八柱を祀る。 現在、主な入口は東門になっているが、本来の正門は南門である。南門と本堂の間には、雑木林や苔庭の中に金堂、東西両塔の跡があり、それぞれ礎石が残っている。
境内
本堂(国宝) - 鎌倉時代の建立で、講堂の跡地に建てられた。当時の和様仏堂の代表作の1つである。桁行(正面)5間、梁間(側面)4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている[注 1]。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重要文化財)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重要文化財)、帝釈天立像(重要文化財)、伎芸天立像(重要文化財)などを安置する。
鐘楼
大元堂 - 本堂西側。秘仏の大元帥明王像を安置する。
開山堂
霊堂
十三重石塔
金堂跡 - 礎石が残る。苔庭となっている。
十三社
香水閣 - 本堂東側、東門近くにある井戸「香水井」である。平安時代の初め、僧常暁が当時の閼伽井の水面に映る大元帥明王像を感得したという故地である。
東門
庫裏
東塔跡 - 三重塔の跡。基壇や礎石がよく残っている。