秋田魁新報
秋田市にある秋田魁新報社本社
種類日刊紙
サイズブランケット判
事業者秋田魁新報社
本社秋田
代表者代表取締役社長 佐川博之
創刊1874年2月2日
前身羽後新聞
言語日本語
価格1部 160円
月極 3,900円
発行数205,079部
(2022年6月、日本ABC協会調べ[1])
ウェブサイトhttps://www.sakigake.jp/
YouTube
チャンネル
秋田魁新報
活動期間2009年4月13日 -
ジャンルニュース
登録者数10050人
総再生回数約1026万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002021-08-04-00002021年8月4日時点。
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秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)は、秋田県の日刊新聞。秋田魁新報社(あきたさきがけしんぽうしゃ)によって発行されている。
中央、地方を通じても全国で四番目、地方新聞としては二番目に古い歴史をもつ新聞である[2][注 1]。社是は「文章報國、蹈正勿懼(せいをふんでおそるるなかれ)」[2][4] 東北地方で最も長い歴史を持つ新聞のひとつ。後に首相となる犬養毅が主筆を務めていた。一部ひらがな表記の「秋田さきがけ」としても知られている。発行部数(日本ABC協会調査)は20万9366部(2019年1月 - 6月平均)[5]。秋田県を代表する報道・言論機関として、地元の民間放送局である秋田放送・秋田テレビ・エフエム秋田に出資しているほか、県内における文化・スポーツ等の大規模イベントに開催者として名を連ねるケースも多い。 ほかの新聞社同様に、Webで秋田県の最新ニュースを配信している。 イメージキャラクターの「ヨムトン」「ミール」「シルル」がおり、これらの名前は一般公募によって決定した。 秋田県内で競合するほかの地方紙は、大館・北秋田地域(大館市、北秋田市、北秋田郡上小阿仁村)と鹿角地域(鹿角市、鹿角郡小坂町)で「北鹿新聞」が、能代・山本地域(能代市、山本郡藤里町・三種町・八峰町)では「北羽新報」、北秋田地域では「秋北新聞」が発行されている。 秋田市山王臨海町1-1 大館・横手の各支社はかつて周辺の各支局を統括する「総局」であった。その後、大規模な市町村合併により自治体数が急減したことに伴い、一旦、他の支局と同格となったが、2011年10月から支社に格上げされた[6]。 鹿角市・北秋田市・能代市・男鹿市・由利本荘市・大仙市・仙北市・湯沢市
概要
本社
支社
支局
沿革秋田魁新報の題字
1873年(明治6年)
3月28日 - 羽後新聞発行の許可が文部省より下りる[7][8]。
3月 - 秋田茶町菊ノ丁(現在の秋田市大町二丁目)に印刷所「聚珍社」が設立される。「聚珍」は「新奇を拾い集める」の意。命名者は狩野良知[2][8]。
10月27日 - 文部省から羽後新聞を遐邇新聞に改題する許可がおりる[9]。「遐邇」(かじ)は遠近の意味。 命名者は狩野良知[8]。
1874年(明治7年)2月 - 遐邇新聞(週刊)が創刊される[7]。
1877年(明治10年) - 遐邇新聞が日刊になる。
1878年(明治11年)10月 - 遐邇新聞を秋田遐邇新聞と改題[7]。
1882年(明治15年)1月 - 秋田遐邇新聞を秋田日報と改題。主幹、大久保鉄作。
1883年(明治16年)4月 - 大久保鉄作の招きで、報知新聞記者であった木堂犬養毅を主筆に迎える[注 2]。同年11月には帰京した。[12]
1884年(明治17年) - 秋田青森函館新報と改題、函館で発行。
1887年(明治20年)9月 - 秋田青森函館新報を秋田新報として復刊。
1889年(明治22年)
1月 - 失政を厳しく批判したことに腹を立てた青山貞秋田県知事が発行停止処分にした[13]。
2月 - 発行停止処分の対抗策として秋田魁新報の発行を内務省に申請し、2月11日に許可され、2月15日に発行される[注 3][13]。
1893年(明治26年) - 本社屋が本間金之助宅跡(現秋田市大町二丁目)に移る[14]。
1895年(明治28年) - 読売新聞、鳥取新報と共に、治安妨害の理由で一日の発行停止を命じられた[15]。
1898年(明治31年) - 癸巳(きし)活版所を買収して、独立印刷工場を設ける[14]。
1902年(明治35年)10月 - 民法により匿名組合(資本三万三千円)を組織[14]。
1903年(明治36年)1月 - 年中無休刊を実施[14]。
1905年(明治38年)8月 - 新社屋(秋田市大町一丁目)で業務を始める[14]。
1915年(大正4年) - 東京に特置出張員を置く(東京支社の前身)。
1923年(大正12年)1月 - 従来の匿名組合を改め、資本金十万円の株式組織に変更。発行所も秋田新報社から秋田魁新報社とする。[16][14]
1925年(大正14年)9月 - 県内6か所に通信部を置く[14]。
1931年(昭和6年)7月 - 秋田市大町一丁目に鉄筋コンクリート3階建ての新社屋が完成。屋上で執り行った社旗掲揚式には若槻首相、町田農相、田中文相が出席した。[17][14]
1932年(昭和7年)10月 - 大阪支局を新設。
1944年(昭和19年)3月 - 戦時統制により夕刊を休止し朝刊のみとなる[14]。
1945年(昭和20年) - 「月間さきがけ」創刊。(1950年5月号で終刊)
1946年(昭和21年)8月 - 東京支局が支社制になる。
1949年(昭和24年)
4月 - 「秋田スポーツ」創刊。(同年7月終刊)
9月 - 株式会社夕刊秋田新聞社を設立、発行する[14]。
1950年(昭和25年)8月 - 夕刊秋田を本社に合併し、昭和19年3月に休止して以来、夕刊制が復活[14]。
1952年(昭和27年) - 朝夕刊のセット版開始。仙台支局を10年ぶり復活。
1953年(昭和28年)
6月 - 「秋田魁年鑑」28年度版から刊行。
11月1日 - ラジオ東北(現:秋田放送)が開局。開局当初は社屋4階に局舎を設置し放送していた[18]。
1966年(昭和41年) - 秋田魁新報「縮刷版」(7月号から刊行、昭和49年2月廃刊)。
1968年(昭和43年) - 本紙連載企画「吹っ飛ばせ 県民病」が新聞協会賞を受賞。
1973年(昭和48年) - 元旦号116ページ(別冊含む)は日刊紙としては新記録。
1974年(昭和49年) - 本紙連載企画「豊かさの条件」が新聞協会賞を受賞。
1979年(昭和54年) - 第1回全県500歳野球大会を主催。以後毎年、主催者として大会を運営している。
1981年(昭和56年) - 新聞製作が電算編集オンラインシステムに移行。
1984年(昭和59年)- さきがけ文学賞を創設。
1987年(昭和62年)10月20日 - 元幹部社員(市川雅由
1988年(昭和63年)1月 - ゴルフ場問題の責任をとって会長、社長、編集局長が辞任。
1994年(平成6年) - 新社屋(山王臨海町)へ移転。
1996年(平成8年) - 東北5社の「緊急時の新聞発行の相互支援協定」に調印。サンケイスポーツ東京本社版との提携により、さきがけスポーツ創刊。
1997年(平成9年)
ワープロからパソコンへの更新が開始。
4月 - 旧本社の一部を解体し、その跡地にできたオープンモール型店舗のサン・パティオ大町が開業。
1998年(平成10年) - ホームページを開設。
1999年(平成11年) - 「県北」「県央」「県南」の地域版を新設
2000年(平成12年) - 東日本旅客鉄道(JR東日本)秋田駅など主要6駅に電光ニュース提供。
2003年(平成15年) - さきがけスポーツ休刊。夕刊題字をカラー、横組みに刷新。
2007年(平成19年) - さきがけ印刷センター本格稼働。
2008年(平成20年)9月30日 - 同日発行分で夕刊を廃止。朝夕刊セット1か月で3,007円を朝刊のみ1か月で2,950円に値下げ。
2011年(平成23年)
3月12日 - 同日付朝刊が東日本大震災の影響による停電で新聞制作システムの停止により、テレビ欄などを省略して全8ページで発行。
10月1日 - 大館支局を移転して大館支社に、横手支局を横手支社とする[6]。
2014年(平成26年)
1月9日 - 週刊さきがけスポーツ発行。
2月2日 - 本社内1、2階の印刷施設跡に「さきがけホール」を開設。
7月2日 - 秋田県出身の女優・佐々木希の等身大別刷り紙面を「元気まで届ける新聞」として発行[19][20]。
11月5日 - 従業員の残業代と深夜割増賃金の未払いに関して、秋田労働基準監督署から是正勧告を受けていたことが明らかとなる[21][22]。