秋田鉄道
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秋田鉄道株式会社
種類株式会社
本社所在地 日本
秋田県北秋田郡扇田町[1]
設立1913年(大正2年)8月[1]
業種陸運業
代表者社長 佐藤竜治[1]
資本金1,400,000円(払込高)[1]
特記事項:上記データは1934年(昭和9年)現在[1]
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秋田鉄道(あきたてつどう)は、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)と鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)を結ぶため建設された鉄道路線及びその運営会社である。乗合自動車業も兼営した。後に国有化され、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)花輪線の一部となった。
歴史
鉄道免許・会社設立

1899年(明治32年)に奥羽北線(奥羽本線)大館駅が開業すると1901年(明治34年)に盛岡市と大館町が東北、奥羽両幹線を大館、盛岡で結ぶ横貫線建設を政府に請願している[2]。やがて1912年(明治45年)4月に尾去沢鉱山による貨物および花輪町付近の貨物旅客の運輸を目的とした秋田県北秋田郡大館町より尾去沢村にいたる、軌間1067mmの蒸気鉄道が出願された[† 1]。発起人は近藤修孝(発起人総代、東京、身延電燈株式会社社長)[3]、山本武彦(山梨県西八代郡栄村、農業)[† 2]、広瀬増治郎(静岡県富士郡今泉村、呉服太物商)、麓貞吉(北秋田郡扇田町、農業、秋田県会議員[4])、内田平三郎(鹿角郡尾去沢村、農業、秋田県会議員[5])、明石順吉(東京、鉱業)、渡邊亀蔵(のち彦右衛門)(山本郡能代港町、商業)[† 3]、浦城直太(東京、輸出入商、土木業)、石原直太郎(東京、会社員)であった[† 4]。1912年(大正元年)8月に鉄道敷設免許状が下付された。1913年(大正2年)7月に近藤修孝、広瀬増治郎、山本武彦が脱退し[† 5]河東田経清[† 6]、高木和足(東京)が加入した。同年8月秋田鉄道株式会社を設立。資本金は100万円(2万株)、本社を扇田町におき、河東田経清が社長に、明石順吉が専務取締役に渡邊亀蔵、島村金治郎(三菱鉱業取締役、尾去沢鉱山長)[6]、高木和足、豊口竹五郎(毛馬内町、秋田県会議員)[5]が取締役に就任した。筆頭株主は河東田であった[† 7]
開業(大館-扇田-大滝温泉-毛馬内)

1913年(大正2年)10月には終点を花輪に延長することが認可された。同年11月に起工し[7]、1914年(大正3年)7月大館 - 扇田間が開業する。1915年(大正4年)1月に扇田 - 大滝温泉間が開業し、大滝温泉駅は尾去沢鉱山への当初の窓口となった。これより収入は倍増した[7]。続いて12月大滝温泉-毛馬内間が開業する。ただこの区間は工事竣功監査の際に改善項目が指摘されたため貨物営業限定の開業[8]で旅客営業は翌年1月となった[9]。尾去沢駅には尾去沢鉱山まで馬車軌道(1里半)が敷設され貨物がはこばれるようになった[7][† 8]

この間役員は大館 - 扇田間開業直後の1914年(大正3年)8月に河東田、明石両者は辞任し代わって技師長の岩口多喜次良[† 9]が専務取締役に就任した。1914年(大正3年)3月に阿川彦七[† 10][† 11]が取締役に就任し、11月に豊口竹五郎が辞任。1915年(大正4年)9月に阿川彦七が辞任すると岩口多喜次良、島村金治郎、渡辺彦右衛門(亀蔵)[10]3人だけとなる[11]。島村金治郎は尾去沢鉱山の鉱山長であり、尾去沢鉱山の所有者である三菱は秋田鉄道の大株主[12]として歴代の尾去沢鉱山長(島村金治郎[6]、納村章吉[13]、瀬川徳太郎[14]、鈴木一郎[15]、伊藤喬介[16])が取締役になっている。筆頭株主は河東田、阿川の後は菊池忠三郎(11315株)に変わっていったが、菊池は愛国生命保険取締役[17]でありその愛国生命保険は1914年(大正3年)大館扇田間の改良及び扇田大滝温泉間の建設費15万円の借入先であった[† 12]。菊池の後筆頭株主となった藤沢喜士太も愛国生命保険の役員をしていたことがある[18]
花輪開業と支線計画

末広 - 毛馬内(2代)間の工事は岩盤掘鑿の難工事や物価高騰により大幅に遅れていたが、1920年(大正9年)7月に開業した。毛馬内駅は十和田湖への玄関口となり観光客でにぎわった[7]。そして十和田湖までの経路上にある大湯温泉が十和田湖観光の拠点となっていたことから支線を計画し同年8月に鹿角郡錦木村-同郡大湯村間の免許状が下付された。一方花輪町から小坂町への薪炭、木材等の輸送が盛んであったことから錦木村 - 小坂町間の鉄道を計画した。これに対し小坂鉄道も小坂-毛馬内間の鉄道敷設免許申請をしたため競願となったものの秋田鉄道に1917年(大正6年)4月に免許状が下付された[19]。しかしいずれも実現しなかった。

1922年(大正11年)に100万円の増資をすると藤沢喜士太が菊池に継ぐ大株主となった。そして藤沢が取締役に就任すると[20][21]。岩口多喜次良、渡辺彦右衛門は役員から退き、佐藤竜治[22][† 13]、藤沢喜士太(東京)[† 14]藤田謙一[† 13]安場保健(東京)[† 15][† 13]、根岸耕一(東京)[† 16]、関善次郎(秋田県酒造業)[† 17]、鈴木一郎(尾去沢鉱山長)らが役員となった[23]

1923年(大正12年)11月10日 毛馬内-陸中花輪間が開業する。終点となった陸中花輪停車場は設置場所において花輪町内で論争となっていたが地元負担金15万円のうち6万円を出した尾去沢鉱山の要望により現在地となった[† 18]。この全線開業は秋田鉄道創業10年目のことであり、祝賀会を開催する予定であったが関東大震災のため延期となった[24]

秋田鉄道の収入をみると貨物収入の依存度が高く、尾去沢鉱山や沿線の鉱山の消長に左右された。大正8年上期の貨車収入の減少は沿線鉱山の事業縮小、休山によるものであった[25]。大正時代の鉱業をみると当初は第一次世界大戦勃発により銅価が高騰し休山中の鉱山も復活するなど急激に発展していた。しかし戦後の不況により金属鉱業は打撃を受けた。特に軍需性の高い銅、鉄は他の商品を上回る価格の下落を見た。その上最新技術の導入によりコストをさげた低価格のアメリカ銅が登場すると日本産の銅は海外市場を失ったばかりではなく日本は銅輸出国から輸入国に転じ、国内市場をも脅かされるようになった。これに対し古河、藤田、久原、三菱は産銅カルテルを結成、銅関税引き上げ運動を起こした、そして銅関税の引き上げの実現と鉱山の合理化、さらに関東大震災による特需により、ようやく銅市況は持ち直すこととなった[26]


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