秋田県立高等学校(旧制)
創立1947年
所在地秋田市
初代校長野口洪基
廃止1950年
後身校?
同窓会?
旧制秋田県立高等学校 (きゅうせいあきたけんりつこうとうがっこう) は、1947年9月、秋田県に設立された公立の旧制高等学校。 旧制秋田県立女子医学専門学校 (以下、女子医専) は第二次世界大戦中に医師速成を目的として設立されたが、戦後の1947年3月、設備不足のため B級 (存続不可) と判定された。翌4月に女子医専校舎は火災で全焼し、秋田県は女子医専の医科大学昇格を断念した。県は、将来県立医科大学を設置するための布石として、高等学校令による旧制県立高等学校を設置することにした。 創設から廃止まで、秋田市中島町 (現・千秋中島町) の秋田県立秋田高等女学校 (現・秋田県立秋田北高等学校) の 「あげまき会館」 を仮校舎として使用した。
目次
1 概要
2 沿革
3 歴代校長
4 校地の変遷と継承
5 著名な出身者
6 関連書籍
7 関連項目
8 外部リンク
概要
1947年3月に 「B級」 と判定され、4月に校舎を焼失した旧制秋田県立女子医学専門学校の代替として、将来の医科大学設置を目標として設置された、いわゆる「戦後特設高等学校」である(A級B級判定については、旧制医学専門学校を参照)。
修業年限3年の高等科 (理科のみ) を設置した。
新制大学に移行することなく、1950年3月に廃校となった。秋田県における高等医学教育は、1970年に国立秋田大学に医学部が置かれるまで途絶えることとなる。
沿革
1947年4月26日: 秋田県立高等学校設置認可申請。
1947年9月16日: 文部省により秋田県立高等学校設置認可。
1947年10月14日: 女子医専の廃止申請 (県立高等学校設置で不要となった由)。
1947年11月30日: 女子医専、廃止。
1947年12月15日: 開校式、第1回入学式。
第1期合格者は男子38名・女子6名の計44名 (学年定員40名)。
1948年4月29日: 第2期合格者 (男子39名・女子6名) に入学許可。
1950年3月31日: 秋田県立高等学校、廃止。
第1期生卒業者36名。
歴代校長
初代: 野口洪基 (1947年9月 - )
新制秋田大学学芸学部 (現・教育文化学部) 初代学部長となった。
校地の変遷と継承
著名な出身者が望まれています。
関連書籍
秋田市(編) 『秋田市史 : 第5巻 近現代II 通史編』 秋田市、2005年3月、396頁-397頁。
秦郁彦 『旧制高校物語』 文春新書、文藝春秋刊、2003年12月、224頁-226頁。ISBN 4166603558
秋田県教育委員会(編) 『秋田県教育史 : 第6巻通史編II』 秋田県教育委員会、1986年3月、825頁-826頁。
秋田魁新報社(編) 『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年9月、24頁。
関連項目
旧制医学専門学校
秋田県立秋田北高等学校
外部リンク
⇒『紫雲に煙る』 昭和23年秋田県立高等学校記念歌 - 「 ⇒寮歌と花と古寺巡礼」
表
話
編
歴
官立(3年制)新潟高校 / 松本高校 / 山口高校 <再興>/ 松山高校(1919年)
水戸高校 / 山形高校 / 佐賀高校 / 弘前高校 / 松江高校(1920年)
大阪高校 / 浦和高校 / 福岡高校(1921年)
静岡高校 / 高知高校(1922年)
姫路高校 / 広島高校(1923年)
旅順高校(1940年)
官立(7年制)東京高校(1921年) / 台北高校(1922年)
公立(7年制)富山高校(富山県立、1923年) / 浪速高校(大阪府立、1926年) / 府立高校(東京府立、1929年)
私立(7年制)【東京】武蔵高校(1922年) / 成蹊高校(1925年) / 成城高校(1925年)
【兵庫】甲南高校(1926年)
戦後特設高等学校
(3年制、1947年)
官立徳島高校 / 長崎高校
公立秋田県立高校 / 山梨県立高校 / 福岡県立高校
私立日本高校 / 東洋高校
学習院学制(1884年)学習院高等科(1890年)
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更新日時:2019年6月15日(土)01:14
取得日時:2019/08/13 19:17