秋田県立秋田高等学校
秋田県立秋田高等学校(2019年8月)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度44分13秒 東経140度8分2秒 / 北緯39.73694度 東経140.13389度 / 39.73694; 140.13389
秋田県立秋田高等学校(あきたけんりつあきたこうとうがっこう)は、秋田県秋田市に所在する県立高等学校。通称は「秋高」(しゅうこう)。 1873年(明治6年)に洋学校として設立され、旧学制下の中学校等を経て、戦後の学制改革で新制高等学校となった。学校当局が「現存する高校の中では全国で4番目の歴史を持つ」と主張していたこともあった[1] が、現在では学制公布以後の創立校に限定しても少なくとも8番目以降の創立であることが判明している[2][出典無効]。 旧農業専修科が秋田県立大曲農業高等学校、旧定時制課程が秋田県立秋田東高等学校にそれぞれ独立した(年表を参照)。 戦前、対外試合等の場で生徒が「矢留(やどめ)軍」と自称し、野球部等のユニフォームにも「YADOME」と記していた時期があるため、他の高校の校史や郷土史関係の資料には「矢留中学」と誤記されることがある[3]。 自主自律の精神が尊重されており、生徒主体の行事運営をはじめ活発な生徒会活動が行われている[4] ほか、昭和40年代から「応援の自由」「着帽の自由」「着装の自由」[5][6] 等を実現してきた。 教育目標達成のため、 創立は1873年(明治6年)9月1日。秋田町東根小屋町日新学校内に設置された洋学科(洋学校と称する)に始まる。太平学校中学科、同変則中学科、秋田県師範学校中学師範予備科を経て、1882年(明治15年)7月1日に秋田中学校として独立。さらに秋田尋常中学校、秋田県第一尋常中学校、秋田県第一中学校を経て、1901年(明治34年)7月に秋田県立秋田中学校。戦後の学制改革により1948年(昭和23年)4月1日、秋田県立秋田南高等学校となったが、1951年(昭和28年)4月1日に改称し、現在の校名に至る。
概観
教育目標
学力の充実
品性の陶冶
心身の錬磨
教育方針
これまで培ってきた当校の伝統的精神を生かし、全人的な人間の育成に努める。
生徒の自主性を尊重しつつ指導にあたり、学校を溌剌たる創造的な場とする。
職員・生徒・保護者がそれぞれの立場から理想の学校づくりに参加し、全校一体の教育体制を確立する。
沿革
略歴
年表
1873年(明治6年)9月 - 秋田東根小屋町の日新学校内に洋学科を増設、洋学校として開校。
1874年(明治7年)5月 - 伝習学校と統合し太平学校と改称。校舎を秋田東根小屋町の旧藩校明徳館跡に新築。洋学校を中学科に改称し、中学科(洋学校の後身)と伝習科(伝習学校の後身)を併置。
1876年(明治9年)9月 - 中学科を変則中学科と改称。
1882年(明治15年)
3月 - 太平学校を秋田県師範学校に改称。変則中学科を中学師範予備科に改称。
7月 - 中学師範予備科を廃して秋田中学校と改称。
9月 - 秋田中学校開校。
1886年(明治19年)8月 - 秋田尋常中学校と改称。
1893年(明治26年)
1月 - 校章を三剣菱章に改定。
4月 - 農業専修科を設置。
1895年(明治28年)4月 - 農業専修科が秋田県簡易農学校(現在の大曲農業高等学校)として分離独立。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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