秋田県立秋田高等学校
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秋田県立秋田高等学校
秋田県立秋田高等学校(2019年8月)
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過去の名称洋学校
太平学校中学科
太平学校変則中学科
秋田県師範学校中学師範予備科
秋田中学校
秋田尋常中学校
秋田県第一尋常中学校
秋田県第一中学校
秋田県立秋田中学校
秋田県立秋田南高等学校
国公私立の別公立学校
設置者 秋田県
設立年月日1873年9月1日
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
理数科
学校コードD105220155469
高校コード05101C
所在地010-0851
秋田県秋田市手形字中台1番地
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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秋田県立秋田高等学校(あきたけんりつあきたこうとうがっこう)は、秋田県秋田市に所在する県立高等学校。通称は「秋高」(しゅうこう)。
概観

1873年(明治6年)に洋学校として設立され、旧学制下の中学校等を経て、戦後の学制改革新制高等学校となった。学校当局が「現存する高校の中では全国で4番目の歴史を持つ」と主張していたこともあった[1] が、現在では学制公布以後の創立校に限定しても少なくとも8番目以降の創立であることが判明している[2][出典無効]。

旧農業専修科が秋田県立大曲農業高等学校、旧定時制課程が秋田県立秋田東高等学校にそれぞれ独立した(年表を参照)。

戦前、対外試合等の場で生徒が「矢留(やどめ)軍」と自称し、野球部等のユニフォームにも「YADOME」と記していた時期があるため、他の高校の校史や郷土史関係の資料には「矢留中学」と誤記されることがある[3]

自主自律の精神が尊重されており、生徒主体の行事運営をはじめ活発な生徒会活動が行われている[4] ほか、昭和40年代から「応援の自由」「着帽の自由」「着装の自由」[5][6] 等を実現してきた。
教育目標

学力の充実

品性の陶冶

心身の錬磨

教育方針

教育目標達成のため、

これまで培ってきた当校の伝統的精神を生かし、全人的な人間の育成に努める。

生徒の自主性を尊重しつつ指導にあたり、学校を溌剌たる創造的な場とする。

職員・生徒・保護者がそれぞれの立場から理想の学校づくりに参加し、全校一体の教育体制を確立する。

沿革
略歴

創立は1873年(明治6年)9月1日。秋田町東根小屋町日新学校内に設置された洋学科(洋学校と称する)に始まる。太平学校中学科、同変則中学科、秋田県師範学校中学師範予備科を経て、1882年(明治15年)7月1日に秋田中学校として独立。さらに秋田尋常中学校、秋田県第一尋常中学校、秋田県第一中学校を経て、1901年(明治34年)7月に秋田県立秋田中学校。戦後の学制改革により1948年(昭和23年)4月1日、秋田県立秋田南高等学校となったが、1951年(昭和28年)4月1日に改称し、現在の校名に至る。
年表

1873年(明治6年)9月 - 秋田東根小屋町の日新学校内に洋学科を増設、洋学校として開校。

1874年(明治7年)5月 - 伝習学校と統合し太平学校と改称。校舎を秋田東根小屋町の旧藩校明徳館跡に新築。洋学校を中学科に改称し、中学科(洋学校の後身)と伝習科(伝習学校の後身)を併置。

1876年(明治9年)9月 - 中学科を変則中学科と改称。

1882年(明治15年)

3月 - 太平学校を秋田県師範学校に改称。変則中学科を中学師範予備科に改称。

7月 - 中学師範予備科を廃して秋田中学校と改称。

9月 - 秋田中学校開校。


1886年(明治19年)8月 - 秋田尋常中学校と改称。

1893年(明治26年)

1月 - 校章を三剣菱章に改定。

4月 - 農業専修科を設置。


1895年(明治28年)4月 - 農業専修科が秋田県簡易農学校(現在の大曲農業高等学校)として分離独立。

1898年(明治31年)4月 - 秋田県第一尋常中学校と改称。

1899年(明治32年)4月 - 秋田県第一中学校と改称。

1901年(明治34年)7月 - 秋田県立秋田中学校と改称。

1916年(大正5年)5月 - 校旗制定。

1922年(大正11年)7月 - 校歌制定。

1936年(昭和11年)11月24日 - 秋田市東根小屋町から秋田市手形字深田(秋田県師範学校跡地)へ移転。

1945年(昭和20年)

9月19日 - 米軍に校舎が接収され、秋田市寺内帝国石油鉱手養成所(通称石油学校)を代用校舎とする[7]

12月5日 - 米軍に接収されていた校舎が焼失[8]

12月22日 - 仮校舎として秋田市長野町の旧兵舎へ移転[8][9]


1946年(昭和21年)

2月12日 - 中通小学校・築山小学校・牛島小学校明徳小学校を1?4各学年の代用校舎とする[7]

5月1日 - 秋田市長野町へ再移転する[8]


1948年(昭和23年)

4月 - 秋田県立秋田南高等学校と改称。夜間課程、通信制課程を併置。

6月 - 定時制課程を併置。


1951年(昭和26年)4月 - 共学化。夜間課程を定時制課程に併合。

1953年(昭和28年)4月 - 秋田県立秋田高等学校と改称。

1962年(昭和37年)3月3日 - 秋田市手形字大松沢に移転。

1964年(昭和39年)4月 - 定時制課程が秋田東高等学校(現在の秋田県立秋田明徳館高等学校)として分離独立。

1968年(昭和43年)4月 - 理数科1学級設置。


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