秋田実季
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 凡例秋田 実季
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正4年(1576年
死没万治2年11月29日1660年1月11日
改名安東実季→秋田実季→伊駒実季→秋田実季
別名藤太郎(仮名)、宗実(雅号)
戒名高乾院殿隆巌梁空大居士
墓所三重県伊勢市朝熊町永松寺
官位従五位下、秋田城介
幕府江戸幕府
主君豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
常陸宍戸藩
氏族秋田氏
父母安東愛季、畠山清信娘
兄弟業季、秋田局、実季、英季、季勝、
浪岡顕村正室
細川昭元娘・円光院
荒木高兼娘・瑞峯院
俊季、季次、季信、季長、季則、
荒木高綱室、津軽信建正室
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秋田 実季(あきた さねすえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名安東愛季の子[1]
概要

当初、出羽国北部にあって秋田郡など下三郡地方を領し、豊臣秀吉から本領を安堵された。江戸幕府成立後は、常陸国茨城郡茨城県中部)に封じられ、常陸宍戸藩の初代藩主となったが、晩年は不遇だった。
出自

安東氏安倍貞任の末裔と伝承される北方の名門であり、鎌倉時代にあっては津軽青森県西部)の十三湊(青森県五所川原市)を本拠として勢力を拡げ、日本海交易と蝦夷沙汰を担った一族として蝦夷管領を名乗り、南北朝時代には内外に「日の本将軍」を号するほどであった。鎌倉時代後期、そのうちの一派が南下して雄物川馬場目川下流の秋田郡に拠った。これを上国家と称し、出羽国湊城を本拠とした[注釈 1]。一方津軽に留まった一族は糠部三戸郡青森県南東部)地方を本拠とする南部氏の勢力に押され、室町時代にはいったん蝦夷地(現在の北海道)にのがれ、その後出羽国の米代川河口部に移った。これが下国家である。こうして戦国時代の安東氏は雄物川河口部に拠った上国家の湊安東氏と米代川河口部の檜山城(秋田県能代市)を本拠とする檜山安東氏[注釈 2]に分立していたが、檜山安東家出身の父下国愛季の代で統合を果たし、男鹿半島の付け根部分に立地して日本海をのぞむ脇本城(秋田県男鹿市)に居城を移して安東氏の全盛期を築き上げた[4][5]。しかし、この頃より南部氏との緊張はいっそう厳しさを増した[6]
生涯
湊合戦

天正15年(1587年)、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。

実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した[4]。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる[7]

この合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。

天正17年7月、由利郡赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した[4]

天正18年(1590年)、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った[8]
北出羽の大名に

天正18年(1590年)、豊臣秀吉より小田原征伐への参陣を命じられ、これに従った。

続いて同年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。湊合戦は秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた。ただし、実高は15万石におよんだといわれる。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた[注釈 3]

ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩が固められた。なお太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている[9]。秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した[9]。また領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(現在福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している[10][11]湊城跡地に鎮座する土崎神明社

奥州仕置後、実季はあらためて平城として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。また大館城大館市)・脇本城男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた[4]

豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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