秋山虎繁
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 凡例秋山 虎繁
秋山伯耆守晴近(部分)
恵林寺蔵、松本楓湖筆)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕大永7年(1527年
死没天正3年11月26日1575年12月28日
別名信友(『甲斐国志』)、善右衛門尉[1]、伯耆守[1]、晴近・晴親(『甲斐国志』)[2]、武田の猛牛(渾名)
主君武田信虎晴信(信玄)勝頼
氏族秋山氏武田氏甲斐源氏
父母父:秋山信任(新左衛門)
兄弟虎繁、信藤
妻正室:おつやの方織田信長の叔母)?
子養子:昌詮源三郎(共に金丸筑前守(虎義)の子)
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秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。

諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている[3][1][2]。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている[2]。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている[2]
生涯
出生から伊那郡代へ

『甲斐国志』によれば、父は秋山信任(新左衛門)とされるが、「信」は武田家の通字であるため、『国志』の記す虎繁の父親の実名に関しては疑問視されている[2]

確実な初見史料は天文18年(1549年)5月とされ、左近士親兵衛尉に対し、一月に馬三匹文の分国諸関諸役免許を与えた武田氏朱印状の奏者として見られる[4][1][2]

高白斎記』によれば、天文22年(1553年)4月に落城した信濃国葛尾城長野県坂城町)に在城して戦後処理を担当し、御一門衆の武田信繁が虎繁に対して指示を伝達している[1]

弘治2年(1556年)3月1日、信玄は伊奈郡へ出陣し国衆を悉く従えたが、上杉謙信川中島へ侵入してきたため一時的に対峙したが、6月には再び伊奈郡へ出陣し抵抗する者達を成敗した。

同年10月、虎繁は伊奈郡の郡代を仰せつかり、大嶋城(長野県松川町)の城代を務めた。

その麾下に付けられたのは、坂西周次(左衛門佐)と知久頼元(大和守)で、その勢は250余騎であった。

また信玄は山県昌景を相備として、その麾下に付けられたのは、小笠原信嶺(掃部太夫)・武田信廉(逍遥軒刑部少輔)・下条信氏(伊豆守)・松岡新左衛門尉・松岡刑部で、その勢は500余騎であった。

甲陽軍鑑』によれば、虎繁ははじめ高遠城伊那市高遠町)で「上伊奈郡代」(郡司)であったが、永禄5年(1562年)に信玄四男の諏方(武田)勝頼が高遠城主となると、飯田城(長野県飯田市)へ移ったという[2]。ただし、虎繁が高遠城に在城した痕跡は見られないことが指摘される[2]

年未詳8月18日武田晴信書状において、信濃大嶋城に在城していた室住虎光(豊後守)と「秋山善右衛門尉」が、美濃国斎藤道三が国境付近において軍勢を動かした際に、大嶋城において情勢を晴信に報告し、晴信から指示を与えられている[1][5]。同文書は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死している室住虎光の没年から永禄初年頃[6]、あるいは弘治元年(1555年)に推定されており[5]、「秋山善右衛門尉」は虎繁を指すと考えられている[6]。なお、この時には美濃の国人の遠山氏支援のため美濃苗木城岐阜県中津川市)に在番していた可能性が指摘される[5]

これ以後も大嶋城に在番し続け、永禄2年(1559年)12月には伊奈郡の春近衆・赤須昌為の所領紛争の解決などに携わっている[1][2]。虎繁は主に伊奈郡において美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に携わっており、『甲陽軍鑑』では虎繁を「伊奈郡代」としている[7]

永禄2年から永禄8年(1565年)頃に受領名「伯耆守」を受ける[8][5]。同年には尾張国の織田信長との同盟交渉においては取次を務める[1][5]

永禄8年(1565年)には、美濃土岐郡の高野口(神篦城付近)で秋山虎繁と織田方の(森長可)両軍の軍事衝突が起こった(高野口の戦い)[9]

永禄11年(1568年)には岐阜へ赴いたという(『甲陽軍鑑』)[5]。なお、「秋山善右衛門尉」と「秋山伯耆守」は活動時期から同一人物であると推定されており、後に織田信長が打ちとった敵将・攻略した城郭を記した「信長公御一代合戦之覚」(徳川林政史研究所所蔵古案)では、長篠合戦以前に、虎繁を指していると考えられている「秋山善右衛門」の名が見られる[2]
駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去

永禄11年(1568年)12月、武田氏は駿河国今川領への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏は駿河侵攻に際して三河国徳川家康に同盟を持ちかけていたが、『三河物語』によれば徳川方は同盟締結の国分において駿河国を武田領、遠江国を徳川領と理解していたと考えられており、虎繁が伊奈衆を率いて遠江へ侵攻すると、これに対して抗議している[10][7][5]。晴信は虎繁を撤退させることを約束しているが、この事件以後に武田・徳川同盟は崩壊している[5]


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