秋山翔吾
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秋山 翔吾広島東洋カープ #9
2022年7月13日 マツダスタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県横須賀市
生年月日 (1988-04-16) 1988年4月16日(36歳)
身長
体重184 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手
プロ入り2010年 ドラフト3位
初出場NPB / 2011年4月12日
MLB / 2020年7月24日
最終出場MLB / 2021年9月16日
年俸1億5000万円(2024年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


横浜創学館高等学校

八戸大学

埼玉西武ライオンズ (2011 - 2019)

シンシナティ・レッズ (2020 - 2021)

広島東洋カープ (2022 - )

国際大会
代表チーム 日本
WBC2017年
プレミア122015年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
男子 野球
日本
WBSCプレミア12
2015

秋山 翔吾(あきやま しょうご、1988年4月16日 - )は、神奈川県横須賀市出身[2]プロ野球選手外野手)。右投左打。広島東洋カープ所属。

日本プロ野球におけるシーズン最多安打記録(216本・2015年)保持者。
経歴
プロ入り前

2歳で野球を始め、1995年の卒園文集には「やきゅうせんしゅになりたいです。いちろう(イチロー)みたいにひっとうちたいです。」と書いていた[3][4]横須賀市立大津小学校に入学した小学1年からソフトボールチームの「大津スネークス」に入部。コンマ1秒でも早く一塁へ到達するよう右投げ左打ちに変更。左打ちのフォームは父親から指導された。父親の指導は厳しく、小学生時点で大津中学校の陸上部に入部し中学生と一緒に陸上の練習をしていた。「湘南武山フェニックス」では投手捕手内野手外野手として活躍し2000年に卒団。小学校卒業文集のタイトルは「プロ野球選手を目指して」。横須賀市立大津中学校時代は横浜金沢シニアに所属していた。更に陸上部にも所属し、脚力を磨いた。

横浜創学館高等学校では1年時からレギュラーとなるも、3年夏は県ベスト8で敗退し甲子園出場は無かった。秋山は全国的には無名であったもののドラフト候補にもその名前が挙げられていた。同高の同期に北野洸貴がおり、秋山の2学年先輩には後にプロでもチームメイトとなる坂田遼がいた。

高校卒業後は八戸大学(現八戸学院大学)へ進学し、北東北大学野球連盟に加盟している硬式野球部へ入部する。大学では1年時の春からレギュラーとなり春秋連続でベストナインを受賞。4年時の春は4番打者を務め勝負強い打撃で打率.486、14打点を記録。優秀選手賞、首位打者、最多打点、ベストナインの4冠に輝いた。大学の同期には塩見貴洋、1学年後輩には田代将太郎がいた。

2010年10月28日に行われたプロ野球ドラフト会議にて埼玉西武ライオンズから3巡目で指名を受け入団[5]。背番号は55。
西武時代2011年7月5日

2011年は、球団の新人外野手としては岡村隆則以来30年ぶりとなる開幕スタメンを迎え「9番・右翼手」で出場、翌日の2戦目にはプロ初安打初打点を記録し、3安打を打った[6][7]。同年の新人選手の中で、公式戦で最初に安打を打った。しかし、開幕直後こそ調子がよかったもののその後不振に陥り二軍落ちを経験してしまう。7月中盤に再昇格後は当初は右翼手として、栗山巧が怪我の影響で左翼手にコンバートされた後は中堅手のレギュラーとして固定され、広い守備範囲と強肩を活かした守備面での活躍が目立った。打撃では主に9番あるいは7番を打ち.232と低打率だったが、9月の月間MVP候補にノミネートされるなど8月以降は好調であった。

2012年は、開幕レギュラーが期待されたが、右大腿部の故障で開幕を二軍で迎えた。その後も2回出場選手登録を抹消されたが、その間に前年の課題だった打撃面が向上し、一軍にいる間はチーム事情から1?3番と5番を経験、栗山が離脱してからは2番に固定された。9月5日の福岡ソフトバンクホークス戦ではプロ入り初のサヨナラ本塁打を打った。また規定打席にも初めて到達、打率はリーグ6位の好成績を残した。オフの11月6日に「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出された[8]。第一戦は守備固めとして出場、第二戦は七番中堅手で先発出場し2打数0安打2四球であった。

2013年は、中堅手として全試合に先発出場して終盤に代打と交代した1試合を除いてフルイニング出場を果たし、ゴールデングラブ賞のタイトルを初めて受賞した。打撃では6月と8月の月間打率が2割を下回った。打順は5月までは主に2番、6月は主に1番、7月は主に5番で起用された。オフの11月には、台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された[9]。同チームから浅村栄斗炭谷銀仁朗も選出された。また、この年には高校3年時から交際していた女性と結婚した[10]。契約更改交渉に臨み、3000万円増の推定年俸6500万円でサインした[11]

2014年は、開幕から3番として起用されたが打率1割台と打撃不振に陥り、4月24日に主砲の中村剛也と入れ替わりで登録を抹消された[12]。一軍復帰後は1番で起用され、5月と6月は月間打率が3割を超えるなど調子を上げていったが夏場は打率を伸ばせず下位打線に回り、最終的に本塁打も前年の13本から4本に減った。10月に中村と共に右肘のクリーニング手術を受けた[13]

2015年は、森友哉のフォームを参考にしたというバットを寝かせて構えた打撃フォームに変え、開幕から好成績を残す[14]。6月14日、63試合目で100安打を打ち、100安打到達では1994年のイチロー(60試合)、1964年の広瀬叔功(61試合)に次いで史上3番目の記録になった[15]。6月27日、イチロー(1994年5・6月)以来史上2人目となる2か月連続での月間40安打を達成した。6月3日の中日ドラゴンズ戦から7月14日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に途切れるまで打った連続試合安打31試合は、1979年の高橋慶彦による日本最長記録33試合に及ばずも歴代3位タイにランクインした(左打者としては歴代1位)。記録が途切れることとなった延長10回裏の第5打席では四球を選び、結果的に中村剛也のサヨナラ3点本塁打を呼び込みチームの連敗を止めるチームプレーとなった[16]。9月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦で先発の元チームメイト・涌井秀章から左前に適時打を打ち、史上7人目となるシーズン200本安打を達成した。


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