秋山正重
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 凡例秋山正重
時代江戸時代前期
生誕天正14年(1586年
死没寛永17年10月3日1640年11月16日
別名十右衛門(通称)
戒名理用[1]
了修院照岩理用[2]
了修院殿日遊居士[注釈 1]
了修院殿照実日遊[5][注釈 2]
墓所千葉県松戸市本土寺
官位従五位下修理亮
幕府江戸幕府 旗本
主君徳川秀忠家光
氏族秋山氏
父母父:秋山昌秀
兄弟昌吉、正重、折井政次室、昌成、太郎兵衛 [1]
妻@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}盛徳院[要出典]
正俊(正房)、正家、方頼、正勝 ほか
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秋山 正重(あきやま まさしげ)は、江戸時代前期の旗本。1632年に最初に任命された4人の大目付のうちの1人。通称は十右衛門[1]官位従五位下修理亮[1]
生涯

秋山家は甲斐武田氏旧臣の家系で、正重の叔母(秋山虎康の娘)の於都摩(下山殿)は、家康の側室となって武田信吉を生んだ[6]。この関係で、正重の父の秋山昌秀は下総国内で1000石を与えられている[7]。秋山家の知行地支配の拠点となる陣屋は小金千葉県松戸市小金付近)に置かれたと考えられる[7][注釈 3]

正重は徳川秀忠に仕えて、書院番を務め、大坂の陣に従軍する[1]元和4年(1618年)には、目付に任じられた[1]。このとき加増を受けて、下総長柄郡内1000石を知行した[1]

元和9年(1623年)に父の遺領1000石を相続し、計2000石となる[1]。同年、岩槻藩青山忠俊大多喜藩に移されるのを受けて、岩槻に城地受け取りのため出張[1]寛永4年(1627年)12月に従五位下修理亮に叙任[1]

寛永9年(1632年)、熊本藩加藤忠広が改易されたのを受け、同年6月16日に将軍の命を受けて熊本に赴いた[1]。この年10月3日、上総国武射郡市原郡において2000石を加増され、4000石となる[1]

寛永9年(1632年)12月17日、水野守信柳生宗矩井上政重と共に惣目付に任じられた。これが大目付の起源である[1]。寛永11年(1634年)の家光の上洛の際には、先行して行列通行の準備(路地の沙汰)にあたった[1]。寛永13年(1636年)に家光が日光社参を行った際には、今市に出張して旅館の補修について検分した[1]

寛永17年(1640年)10月3日に没する[1]。55歳[1]。墓所は下総国葛飾郡小金村(現在の松戸市)の本土寺[1]
系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

父:秋山昌秀

母:不詳

正室:盛徳院 - 寿院、柴田勝全(柴田勝成)と斎藤利三の次女との間の娘[要出典][注釈 4]

男子(1):秋山正房(正俊) - 十右衛門。家督を継ぐ。のちに大目付を務める。


生母不明の子女

男子(2):秋山正家 - 大学・源左衛門。別家を立て旗本となる

男子(3):秋山方頼 - 十郎左衛門。別家を立て旗本となる

男子(4):秋山正勝 - 十兵衛。別家を立て旗本となるが、同僚との刃傷事件で死亡、家は改易。

女子(6):長谷川守勝の妻

女子(7):稲葉兵部(堀田上野介家臣)の妻


養子女

養女(5):斎藤右馬允の娘。典医の土岐長元に嫁ぐ。


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 境内石碑の説明[3][4][信頼性要検証]。
^ 「本土寺過去帳」には「了修院殿照実日遊尊位(秋山修理之佐殿)」に続き、「秋山修理殿後室」として「恵了院殿蓮真日修尊尼」(某年5月没)の名が挙げられている[5]
^ 具体的な場所についてははっきりせず、松戸神社付近とする推測がある[7]
^ 『寛政譜』では、柴田勝成(福島左衛門大夫家臣)の娘[1]

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『寛政重修諸家譜』巻第二百六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.31。


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