秋山仁
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あきやま じん秋山 仁
2018年10月1日、
ドミニカ共和国にて
生誕 (1946-10-12) 1946年10月12日(77歳)
東京都武蔵野市
居住 日本
国籍 日本
研究分野数学
研究機関日本医科大学
東海大学
東京理科大学
出身校東京理科大学理学部卒業
上智大学大学院理工学研究科修士課程修了
主な業績グラフ理論研究
離散幾何学の研究
影響を
受けた人物フランク・ハラリー
プロジェクト:人物伝
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秋山 仁(あきやま じん、1946年10月12日[1] - )は、日本数学者(専門は、グラフ理論・離散幾何学)。アコーディオン奏者。学位理学博士東京理科大学1982年[2]

東京理科大学栄誉教授。東海大学名誉教授南開大学中華人民共和国客員教授駿台予備校名誉校長。日本文藝家協会会員。

日本医科大学医学部助教授、東海大学大学院理学研究科教授、東海大学教育開発研究所所長、東京理科大学近代科学資料館長などを歴任した。
人物2018年10月8日、ラ・ロマーナ地区教員人材育成学院にて

東京都武蔵野市出身[1]

を生やし、長髪バンダナを巻くという学者らしからぬスタイルで、テレビ出演もしている。通称「レゲエ教授」。かつては駿台予備学校予備校講師もしていた。数学検定の会長なども歴任。また、NHK高校講座数学基礎」では講師を務めていた。

2003年7月に北海道網走市の廃校舎を利用した「オホーツク数学ワンダーランド」の名誉館長を務め作品を多数展示していたが、運営する「特定非営利活動法人オホーツク数学ワンダーランド」の解散に伴い、2007年3月をもって閉館となった(最終開館日は冬期休館前の2006年11月)。初年度は1万人以上の来館者があったが、徐々に減少して2006年度は約3,300人に落ち込み、自身もテレビ出演や学会などで来館が難しくなっていた。

2012年3月東海大学を定年退職し、同年4月から東京理科大学理学部教授と理数教育研究センター長に着任した。

2013年4月 東京理科大学近代科学資料館館長を兼任。

2018年4月1日付で東京理科大学特任副学長に就任。
エピソード2018年10月1日ドミニカ共和国にて教育大臣アンドレス・ナバロ(右)と2018年10月9日、サントドミンゴ地区教員人材育成学院にてドミニカ共和国駐箚特命全権大使牧内博幸(左)と霞ヶ関ビル 2010年6月20日撮影

2003年11月21日福岡県築上郡椎田町(現・築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に呼ばれるはずだったが、プロモーターの手違いで、当日に同姓の元プロ野球選手・秋山幸二が現れ、学校関係者により「良ければ、講演して頂けませんか?」と請われ、秋山幸二が講演を行うという珍事が発生した。後日、京都大学で講演を行った秋山仁は、壇上に上がると「こんにちは、秋山幸二です」と言って聴衆を笑わせた。この珍事から12年越しとなる2015年9月27日に同町の文化会館コマーレにて講演会の開催が実現し、冒頭「今度こそ、本物の秋山仁です」と語って会場内から拍手喝采を浴びた[3]

現在では数学者である秋山だが、中学生の時に隣の女子と会話をしていたところを先生に当てられ、何も分からなくなってしまった。先生がyを消せばいいといったところ、黒板消しでyを消してしまった(高校数学入門より)。またエッセイにて高校時代、黒板に書かれた対数のlogを指差し「先生、その10グラムというのは何ですか?」と質問してしまい、あだ名が「10グラム男」になったというエピソードを明かしている。

小学生の頃もあまり秀でた成績ではなかったというが、中学2年の時には夏休みの自由研究で正多面体が5種類しかないことを証明して先生を驚かせた。

中学・高校・大学受験は全敗。滑り止めで入学した高校で出会った教師に数学の楽しさを教わり数学者の道を目指す。高校時代から四色問題に興味を持っており、その解決のためにグラフ理論の研究を志した。

東京理科大学は補欠合格。理科大時代も成績が悪かったため大学院へ進学できず、新設されたばかりの上智大学大学院理工学系研究科数学専攻修士課程へ進学した。受験者・合格者ともに秋山1名のみ。

上智大学でも成績が悪く日本で就職ができなかったため海外へ職を求め、ガーナ共和国クマシにあるクマシ工科大学で求人を見つけガーナへ渡航することになった。

ガーナではクーデターが勃発したため内定取り消しになるも、知り合いの紹介で日本医科大学に職を得る。1978年に日本医科大学医学部基礎科学科助教授に就任。

学生時代から肉体労働、バーテンダー、予備校講師などを務め、駿台予備学校ではカリスマ先生として多くの受験生を合格へ導いた。現在も入試数学の解説書を執筆している。

ミシガン大学へ留学するため論文を送り、入門の熱意が認められ教授のフランク・ハラリー(英語版)に師事。ミシガン大学では寝食を忘れ研究に打ち込むが病気になり、病気になるようなヤツは学者になるなとハラリーに一喝される。留学中に挑んでいた四色問題の解決で他の学者に先を越され失意の中帰国。

東京理科大学へ博士論文を提出するがグラフ理論の論文査定ができる教授がいないと却下される。その後、論文査定のできる教授が赴任したことで博士号が授与された(1982年)。

Ferran Hurtado[4], Jorge Urrutia[5]などの数学者からも多くのことを学んだ。

「こだわりがある、という生き方をしていると思う人を挙げてください」という質問に、恩師のミシガン大学のフランク・ハラリー教授と、数学者ポール・エルデシュを挙げたことがある。「人生に影響を与えた本は?」という質問には、中学のときに読んだ「原野の四季」「牧場の四季」(周はじめ著・理論社)と、高校生のときに読み、人の人生の恐ろしさを感じた「天才と狂人の間?島田清次郎の生涯」(杉森久英著・河出書房新社)を挙げたことがある。[6]

略歴
学歴

1965年 - 駒場東邦高等学校卒業

1965年 - 東京理科大学理学部第二部数学科入学

1969年 - 東京理科大学理学部第一部応用数学科卒業

1972年 - 上智大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了。偏微分方程式論の南雲道夫に師事。

1978年から1979年 - ミシガン大学でフランク・ハラリー教授に師事(専攻はグラフ理論

1982年 - 東京理科大学より理学博士の学位を取得。博士論文のタイトルは"Factorization and linear arboricity of graphs"。

職歴2018年10月5日、母と教師のカトリック大学学長アルフレド・デラクルス(中央)から名誉博士号を受領

東京理科大学特任副学長

東京理科大学近代科学資料館館長

東京理科大学理数教育研究センター長


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