秋吉台(あきよしだい)は、山口県美祢市中・東部に広がる日本最大のカルスト台地。北東方向に約16 km、北西方向に約6 kmの広がりを有し、台地上の総面積54 km2、石灰岩の分布(沖積面下の潜在部を含む)総面積93 km2、台地面の標高180 - 420 mである。
厚東川によって東西二つの台地(東台と西台)に分けられ、東側地域が狭義の秋吉台(特別天然記念物、国定公園)である。
概要秋吉台地表の空中写真国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。秋吉台の地形図 東台と西台秋吉台の石灰岩柱秋吉台の山焼き秋吉台最北部の烏帽子岳を望む
地表には無数の石灰岩柱とともに多数のドリーネ(擂鉢穴)やウバーレを有するカッレンフェルトが発達し、地下には秋芳洞、大正洞、景清穴、中尾洞など、400を超える鍾乳洞がある(近年も新しい洞窟が発見されている)。カルスト台地上の降水は蒸発散以外は全て地下に浸透し、秋芳洞をはじめとする多くの洞窟地下水系を通じ、東台と西台に降る雨の大半が厚東川に排出する。
東台の主部は広大な草原地となっており、昭和中頃まではドリーネ耕作や飼料用草刈り場として維持するため、春先に山焼きが広く行われていたが、近年は草原の景観維持の目的に変わり毎年2月に実施されている。しかし地域の高齢化、過疎化による労力不足から次第に実施面積が縮小しつつあり、草原維持の面で問題が生じつつある。台上東部の小盆地に集落(長登)がある。東台とは外れて小面積の猪出台と中台、八久保台があるが、広い意味で東台と総称される。
西台の大半は樹林地で、台地内のカルスト凹地3箇所に集落(江原、入見、奥河原)がある。石灰石資源の鉱区として数カ所で採掘が大きく進んでいる。西台の本体と離れて伊佐台があるが、ふつう西台と総称される。
秋吉台のカルスト台地はひとつの石灰岩の大地塊からなるが、その厚さは西台の西端で50 - 200 m、東台の東北端で1000 m以上に達することがボーリングデータから知られている[1]。
東台には秋吉台科学博物館や秋吉台エコミュージアム、長登銅山文化交流館、秋吉台家族旅行村、秋吉台少年自然の家、秋吉台ユースホステル、秋吉台道路など、学術研究や観光用の施設が数多く整備されている。西台の麓の美祢市街地には美祢市歴史民俗資料館、美祢市化石館がある。北西部には嘉万ポリエという小さな盆地(ポリエ)がある[2]。 約3億5千万年前(古生代石炭紀)、赤道付近のパンサラッサ(古太平洋)上にホットスポット起源のいくつもの海底火山が生じ、海面近くの頂上に珊瑚礁が形成された。これらの海山・珊瑚礁群は秋吉海山列
成り立ち
付加体として地下深く(約10 km?)に埋もれていく海山・珊瑚礁群は、プレートから剥ぎ取られる過程で横圧力によって大きく横臥褶曲し、地層の上下が逆転する地質構造をつくるとともに、2億3千万年前には押し上げられ、山脈の一部に石灰岩層が露出した。この一連の地殻変動を秋吉造山運動と呼んでいる。地層の逆転構造は1923年に小沢儀明が発見したが、その後も非逆転褶曲説や付加に伴う石灰岩体崩壊説など、複数の解釈が提唱され、逆転構造の細部については定説を見るに至っていない。
第三紀以前(約500万年以前)のカルスト地形の様子はよく分かっていないが、次のような歴史をへて、多数のドリーネや鍾乳洞が形成され、現在のようになった[4]。
約2000万年前、低位の準平原形成。現在の秋吉台上を被っている赤色土中には、円磨された石英砂粒が広く普遍的に含有され、準平原時の堆積物に由来するものと推定されている[5]。
約500万年前、標高600 mの隆起準平原化。
370万年前に標高300 mまで古厚東川の侵食が進み、準平原地形から台地地形へ変化。
110万年前に標高100 mまで厚東川の侵食が進む。同時に秋吉台上も溶食によって次第に低くなり、今の秋吉台に近くなった。秋芳洞の形成が開始した。
8 - 9万年前に阿蘇カルデラの巨大噴火(正確には噴火の結果、カルデラができた)によって高温の火砕流が萩近くまで達し、秋吉台も大量の火山灰に広く被われた。
約1万年前にかけて標高45 mまで厚東川の侵食が進んだ後、沖積層の厚い堆積によって厚東川は現標高80 m付近を流れるようになる。