秋元順子
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秋元 順子
生誕 (1947-06-21)
1947年6月21日(76歳)
出身地 日本東京都江東区深川
ジャンル歌謡曲ジャズハワイアン
職業歌手
活動期間2004年 -
レーベルキングレコード
事務所(株)テナーオフィス
公式サイト ⇒http://junko-akimoto.com

秋元 順子(あきもと じゅんこ、1947年6月21日 - )は、日本女性歌手東京都江東区深川生まれ[1]ハワイアンバンド出身であるが、ライブではスタンダードジャズジャズから民謡まで幅広いジャンルを歌う[1]
略歴

高校卒業後、石油会社で働きながら、ハワイアンバンドで音楽活動を行うが、結婚後ほどなくして主婦業に専念[1]

以後は主婦業や子育てをしながら夫の家業である花屋を手伝い[1]、その後子育てから手が離れた40歳頃に昔のバンド仲間から誘われ音楽活動を再開。

2004年4月(57歳)、ソロ歌手として「マディソン郡の恋」を徳間ジャパンからインディーズ発売[1]。同曲の評判が口コミで広がり、「有線お問合せランキング」で異例の連続1位を獲得[1]。これが関係者の目に止まり、翌2005年7月に58歳でキングレコードよりメジャーデビューを果たした[1]

2008年に発表したサードシングル「愛のままで…」で、日本レコード大賞優秀作品賞受賞[1]。同年の『第59回NHK紅白歌合戦』に初出場し、61歳6ヶ月での初出場は紅組史上歴代最高齢記録[注釈 1]である。初出場歌手会見の報道では「団塊世代の星」と評された[2][3][4]。また、同曲により2009年オリコンランキング総合1位シングル最年長首位記録を樹立[1]

2019年テナーオフィスに移籍。ブログのアドレスも変更。
エピソード
子供時代

紳士服の仕立て職人で浪曲好きな父、民謡好きな母のもとで育ち、自然と歌うことが好きになった[1]。ただし小さい頃はハスキーな自分の声にコンプレックスを持っており、友達から「ガラガラ声」とからかわれたせいで、大好きな歌も人前では歌えなかった[1]。小学3年生の時、音楽の授業で一人で「月の砂漠」を歌うことになり[注釈 2]、歌唱後に担任から「とってもいい声ね」と褒められ、友達からも拍手されたことでコンプレックスを克服[1]

中学では英語の歌唱コンクールで優勝し、高校では歌と台詞のオペレッタ「シンデレラ」で、憎たらしい母親役を演じたことで自信に繋がった[1]。子供の頃から音楽の先生に憧れていたため[1]、音大志望だった[5]。しかし、親から働いて家計を助けてほしいとの意向により、高校卒業後は石油会社に就職した[1]
ハワイアンバンドのボーカルと主婦業

しかし音楽への思いは捨てられず、会社のハワイアンバンドにボーカルとして加入。以後、社内イベントなどでハワイアンの他ジャズ、ポップス、民謡など色々なジャンルの歌を披露し始める[1]。すると歌声が評判となって他の会社などからもバンドに声がかかるようになり、色々な会社のイベントやパーティーに呼ばれて歌うようになった[注釈 3]。また、この頃は他のグループからスカウトされて3つのバンドを掛け持ちしたこともあった[5]

20代の頃、プロ歌手を目指していくつかオーディションを受けたが、どれも「歌はいいけど、あと何歳か若ければね」などと言われて不合格に終わった[6]。ほどなくして友達の紹介で生花店を営む男性との結婚を機に24歳で石油会社を退社[5][1]。結婚後もしばらくはバンド活動を続けたが、長女を妊娠してドレスが着れなくなったことを機に歌手活動を休止[1]。その後長男も生まれ、家事と子育てと生花店の手伝いで忙しい日々を過ごし、40代までの13?14年間は歌と全く無縁の生活となった[1]

上の子が小学4年生になり、生花店も順調に業績を伸ばしていたある日、昔のバンド仲間からバンド再結成に誘われた[1][5]。久しぶりに会った仲間の前で以前バンド活動で歌っていた「南国の夜」を歌うと、十分声が出たことやボーカルをしていた頃の楽しさを思い出した[7]。すぐに夫に電話で相談すると、「今まで通り家事と店の手伝いもした上でなら、バンドやってもいいよ」と許可が下りた[1]

以後家事などを懸命にこなしながら、歌の練習をしてバンド活動を再開させた[1]。その後一時はバンドを辞めようかとも思ったが、娘から小学生の娘から、「本当にやりたいんだったらやれるところまでやってみたら?」って言われた[注釈 4]との言葉に励まされ[7]、娘に時々料理の手伝いをしてもらいながらバンド活動を続けた[1]
本格的に歌手の道へ

ほどなくしてある人から「あなたの声はジャズ向きね」と言われたことが発端となり、後日ジャズの本場であるニューヨークとニューオリンズを巡るツアー[注釈 5]に参加[1]。2週間後熱いジャズへの想いを胸に帰国すると[注釈 6]、同ツアー参加者から「ライブハウスで歌ってみませんか」と声がかかった[1]。これに出演するため、本格的なボイストレーニングやジャズの歌詞に出てくる英語の勉強を行った[1]

また、新人のソロ歌手となった直後に、ジャズクラブ関係者から助言[注釈 7]をもらった[7]。以後、経験が豊富な先輩歌手たちのステージを色々と見て回り、客に衣装の要望をリサーチするなど地道に努力を重ねた[7]。次第に秋元の歌唱などを気に入る客が出てきて、歌手として仕事が増えていった[7]

セミプロのジャズ歌手として遅咲きのスターを切り、ライブハウスやホテルのラウンジなどで歌声を披露するようになった[1]2004年、友人の紹介で作曲家・星桂三と出会って楽曲「マディソン郡の恋」をもらい、インディーズの形で星とCDを共同制作した[1]。以後キャリーバッグにCDを詰め込んで知り合いのクラブやカラオケバーなどを回って手売りすると、有線放送で反響が広がった[1]。CDが6,000枚完売した頃、レコード会社から声がかかり歌手としてメジャーデビューが決まった[1]

「愛のままで…」の曲を渡された時、本人を含めて大ヒットするとは誰一人思わなかった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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