秋保電気鉄道
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秋保電気鉄道
宮城交通旗立西公園前バス停。バスが走る左側の専用道路は秋保電鉄旗立駅 - 太白山駅間の線路跡を利用したもの。
概要
現況廃止
起終点起点:長町駅
終点:秋保温泉駅
駅数11駅
運営
開業1914年12月23日 (1914-12-23)
廃止1961年5月8日 (1961-5-8)
所有者秋保石材軌道
→秋保石材電気軌道
→秋保電気軌道
→秋保電気鉄道
→仙南交通
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長16.0 km (9.9 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化直流600 V 架空電車線方式
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停車場・施設・接続路線
凡例


国鉄東北本線 長町駅


仙台市電 秋保電鉄前 / 長町駅前


0.0長町


0.8東北特殊香B-1946


2.6西多賀


4.4鈎取


5.2月ヶ丘


6.2旗立


一号(太白)トンネル


7.5太白山


二号トンネル


8.4萩の台


10.3茂庭


13.5北赤石


15.2磊々峡


16.0秋保温泉

秋保電気鉄道(あきう[注釈 1]でんきてつどう)は、かつて宮城県仙台市長町と同県名取郡秋保村(現仙台市太白区秋保町)の秋保温泉を結んでいた鉄道である。略称は秋保電鉄(あきうでんてつ)。1961年昭和36年)に全線が廃止された。
概要

画像外部リンク
1914年(大正3年) 秋保岩を運搬する秋保石材軌道の馬車軌道
smt「 ⇒せんだい時遊map」写真)
秋保電鉄のお別れ式
仙台市戦災復興記念館所蔵)

秋保温泉を利用する湯治客の旅客輸送と、秋保で産出される凝灰岩秋保石貨物輸送を目的として、1914年大正3年)に長町 - 秋保温泉間で馬車軌道「秋保石材軌道」として開業。1925年(大正14年)に電化を完了して以後は「秋保電気軌道」、1944年(昭和19年)に「秋保電気鉄道」と改称して運営された。

戦後は設備の老朽化や利用客の減少などにより経営が悪化、1959年(昭和34年)、仙南交通自動車と合併して「仙南交通秋保線」と改称、1961年(昭和36年)に廃止された。
路線データ

廃止時点のもの。

路線距離(
営業キロ):16.0km

軌間:1067mm

駅数:11駅(起終点駅含む)

複線区間:なし(全線単線

電化区間:全線(直流600V架空単線式)

歴史

秋保への鉄道敷設を目指す計画は1911年(明治44年)に始まる。この年、秋保村の佐藤信之介等9人が発起人となり、内閣総理大臣および内務大臣に宛てて、名取郡茂ヶ崎(長町)の東北本線長町駅前から鉤取、茂庭を経由して秋保の湯元に至る馬車鉄道の建設認可を求める申請書が提出され、これに対して1912年(大正元年)に特許状が発行された。発起人総会や創立委員会の開催を経て、1913年(大正2年)6月に資本金20万円をもって秋保石材軌道株式会社が発足し、同年8月から軌道の敷設工事が進められた。これと前後して、秋保の石材会社の取り込みや、陸羽東線開通前に宮城県内で小牛田古川を結んでいた古川馬車鉄道からの軌道設備などの買い取りが行われた。1914年(大正3年)10月に秋保から茂庭の間の工事は完了し、同年12月には全線が開通した[1]。当初設置された停車場は長町、富沢、鈎取、太白山、茂庭、北赤石、湯元の7つで、それらの構内は馬車の行き違いができる構造になっていた[2]。路線はおおむね、改正鉄道敷設法別表の「本州ノ部 21. 宮城県長町ヨリ青根附近ニ至ル鉄道」に沿って敷設されており、長町 - 赤石間は笹谷街道、赤石 - 秋保温泉間は二口街道という江戸時代からの街道に沿っていた。馬は会社でなく馭者の所有であり、カーブで馭者が吹くラッパの音から「トテ馬車」との愛称があった[3][4]

秋保石材軌道はその名称の通り、石材の運搬を主目的に建設されたが、開通後は秋保の鉱山で採掘された鉱石や、沿線で切り出された木材の出荷にも利用された。秋保石については、鉄道院に対して輸送費用の割引を請願し、これが認められるなどして、販路の拡大に成功した。また、秋保村においてこの軌道と接続する乗合馬車が運行されるようになるなどの交通事情の変化をもたらした。しかし、馬車鉄道であるが故にそれほど速くはなく、時刻表による長町 - 秋保温泉間の所要時間は2時間20分程度であったが、運用した馬の調子によって前後した。そのため、旅慣れた者の急ぎ歩きで要する時間とあまり変わりなかったという[5]

こうした状況にあって、秋保石材軌道は1917年(大正6年)に路線の電化と軌道の改良を決定した。新株が発行されて会社の資本金は80万円となり、電力会社との契約や鉄道院と内務省に動力変更の認可申請を行うなど、準備が進められた。1922年(大正11年)に秋保石材電気軌道株式会社、1925年(大正14年)には秋保電気軌道株式会社へ改称し、工事費として借り入れた20万円をもって、電化工事と軌道工事に着手した。工事に当たっては同年4月11日から軌道の営業を約2ヶ月間休止し、6月14日から電車電気機関車が新しい軌道を走り始めた。この時、秋保電気軌道が保有していた車両は、電気機関車2両、定員36名の旅客用電車3両、定員40名の旅客用付随車2両、2トン貨車8両、3トン貨車2両であった[6]

路線の改良によって秋保と長町の間は約1時間20分で結ばれ、1日に10往復の列車が運行されるようになった。以前は石材が主だった輸送の内訳も、この頃になるとコンクリートの普及によって石材の需要は低下し、反対に旅客は増加したために、貨客が逆転した。1926年(大正15年)には沿線の旗立にボートやテニスコートを備えた遊園地が開園した。1936年(昭和11年)になると、この年に開通した仙台市電長町線と秋保電気軌道の線路が長町で接続されて、仙台市電の車両の一部が秋保電気軌道の車庫を利用した。1937年(昭和12年)に地方鉄道補助法が改正されると、秋保電気軌道を地方鉄道に昇格させる陳情が行われるようになった。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)にこれが実を結び、秋保電気鉄道へと名を変えて地方鉄道となり、省線との間に連絡運輸を結んだ[7]

戦後になると、車両メーカー手持ちの注文流れの新車を3台導入、沿線の三神峯の旧陸軍幼年学校に戦災で校舎を失った旧制第二高等学校が移ったことから、通学利用者により長町と西多賀の間では列車が満員になるほど混雑し、この区間のみ増発するほどだったという。しかし、旧制二高が東北大学に統合され、1958年(昭和33年)に川内に移転[8]するなど、利用者数は減少の一途を辿った。

経営再建のため、軌道のさらなる改良と仙台駅前への路線延伸、仙台市への譲渡、他社との合併の3つの案が検討された。当初は路線延伸案が有力視され、秋保村もこの案を期待したが、頓挫した[9]。次に市は市内交通の一元化と設備近代化のために買収を計画する。秋保電鉄がかねてから老朽化した設備の改善を仙台陸運局から指摘されていたことや、沿線である当時の秋保村生出村、秋保村観光協会から買収の請願を出されていたことも要因だった。仙台市交通局に統合、インターアーバンとして仙台市電と一体化して直通運転するという具体案も出され、長町駅に市電との連絡線を設け、電車の直通試験が行われたこともあったほか、買収価格や詳細も決まっていたと言われている。


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