秋ヶ瀬橋
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秋ヶ瀬橋(2014年1月)

秋ヶ瀬橋(あきがせはし)は、埼玉県さいたま市桜区大字西堀、大字田島、大字下大久保飛地)、及び志木市大字下宗岡に跨がり、荒川第一調節池鴨川放水路(左記の調節池内)、及び荒川に架かる[1]埼玉県道40号さいたま東村山線(志木街道)及び埼玉県道79号朝霞蕨線の道路である。
概要

荒川河口から34.4 kmの地点に位置する[2][3]、志木市および朝霞市からさいたま市方面への主要幹線となっている橋である。また、埼玉県の第二次緊急輸送道路に指定されている[4][5]。歩道は上流側のみに設置されている。欄干は橋が囲繞堤と交差する辺りで可動できる様になっている。県道の橋であるが橋の管理者はさいたま市[2] である。左岸側で荒川横堤である土合第一横堤に接続し[6]、同横堤は反対側で鴨川に架かるさくら草橋に接続する。志木側橋詰は交差点となっているため幅員が拡げられ、12径間[7]の曲線橋である秋ヶ瀬陸橋[8]に接続する。将来的には南側に2車線の道路と歩道を架橋し、上下4車線の橋になる予定で、浦和側は都市計画道路田島大牧線、志木側は都市計画道路黒目川通線に接続する予定。東日本旅客鉄道(JR東日本)の浦和駅と、東武東上線志木駅を結ぶ国際興業バス志01系統路線の走行経路である[9]。さいたま市寄りのバス停留所は「さくら草公園」が最寄り。志木側橋詰には橋と同名のバス停留所もある。24時間当たりの車両通行量は23689台(2010年10月13日?14日)である[10][11]。1982年開通の現在の橋は、全長1045.0メートルで、埼玉県の県道に架かる橋梁において、鋼橋としては最長の橋である[12][13]
歴史
1908年の橋秋ヶ瀬橋と秋ヶ瀬の渡し(1909年)

志木街道の秋ヶ瀬橋が開通する以前は、江戸時代前期に開設された[11] 秋ヶ瀬の渡し[14] と呼ばれる渡船で対岸を結んでいた重要な交通路であった。秋ヶ瀬の渡しが秋ヶ瀬橋の前身である。1871年明治4年)に埼玉県庁が浦和に置かれると秋ヶ瀬の渡船交通が頻繁となり、地元住民の架橋の要望が上がったことから、1908年(明治41年)[15][16] に初代の秋ヶ瀬橋が木製の冠水橋(かんすいきょう)として架橋された。架橋された場所は現在の秋ヶ瀬橋(新秋ヶ瀬橋)よりやや上流側であった。大水の影響を軽減すべく、川岸を櫓状に2メートルほど高くし、そこに橋桁が架けられていた。この橋は大水の際は、橋の損壊を防ぐために橋の渡り板を撤去できる構造になっていた[17]。なお、渡船は冠水橋の完成後も使用は継続され、1938年の永久橋が架橋された際に廃止となった[14][18]。この冠水橋は1938年に永久橋が架橋された際に取り壊された。また、橋の架け替えの際に発生した廃材は川上にある羽根倉橋の架橋に転用された[19][20]。橋の取り付け道路は砂利道として横堤の南側に存続されていたが、さくら草公園の整備の際に舗装され、園内を通る道路として整備されている[11]。右岸側の取り付け道路も右岸堤防の用地となった場所や、流路付近を除き農道などとして残存している。
1938年の橋秋ヶ瀬橋を渡る路線バス(1957年)

昭和初期の荒川上流改修工事の一環として横堤である荒川横堤の土合第一横堤[21]1929年(昭和4年)11月13日に着工し、1934年(昭和9年)3月31日に竣工すると[22][23]、路線(志木街道)はその天端に移し替えられると共に、秋ヶ瀬橋の永久橋化が行われる事となった[11]。なお、右岸側アプローチとなる宗岡第一横堤(完成延長82.65 m)は1929年(昭和4年)12月16日着工され、1931年(昭和6年)1月31日竣工している[22]。橋の設計は増田淳[24]、施行は安藤鉄工所が担当した[25]1933年(昭和8年)に総事業費40万5千円を投じ[26][27] 工事に着手した。途中昭和恐慌に端を発する経済界の不況の中、工事の中断や橋梁の設計変更、さらに工期の延期を余儀なくされたが[28]1938年(昭和13年)11月、現在の橋の下流側に秋ヶ瀬橋の架換工事が完成し、橋長770.5メートル、総幅員6.1メートル[29]、有効幅員5.5メートル[24]、耐荷荷重20トン[29] のポニートラス構造を持つ中路カンチレバートラス橋として架橋された。車線数は2車線で歩道は設置されていなかった[30]。橋の両側は総延長584.05メートル、高さ10.769メートル、幅員8メートルの横堤に接続され[23]、取り付け道路がその天端を通っていた。交通量の増加に伴い、度々橋が傷むようになった。1968年(昭和43年)2月10日から2月20日までの10日間に渡り、橋の修繕により通行止めとなる時期があった。この間、一般車両は下流側にある笹目橋に迂回し、路線バスは荒川を挟み折り返し運行の措置が取られた[31]。さらに、同年12月12日にも翌年3月25日にかけて橋の修繕が行なわれ、その間は橋を通行止めにして、下流側に1車線分の仮橋が架設されて片側交互通行が行われ、笹目橋への迂回も要請した[32]。また、1973年(昭和48年)4月10日22時30分より翌日6時まで橋桁工事のため通行止めになり、その間は羽根倉橋に迂回する措置が取られた[33]。県内屈指の渋滞橋で、県の1980年(昭和55年)6月の調査では7時から19時までの12時間においての四輪車の交通量は18044台で[34]、1日辺りの交通量は約25000台にも上った。朝の通勤時間帯は1キロ進むのに1時間を要した[30]。また、歩行者や自転車などの通行は危険が伴い、まさに命懸けであった[34]。この橋は供用後40年余りの間、交通量の増加に合わせて一部補修はされたが老朽化の他[35]、車両の大型化や激増する交通量に対応しきれなくなり、時代にそぐわなくなったことから、新秋ヶ瀬橋が開通した際にその役目を終え、維持修繕費がかかることもあり[30]、宗岡側の宗岡第一横堤と共に取り壊された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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