私年号
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私年号(しねんごう)は、紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す。異年号(いねんごう)・偽年号(ぎねんごう)・僭年号(せんねんごう)とも呼ぶ。

主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。日本では、正史には記載されていないものの、天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号(いつねんごう)と呼び、これに含める場合がある。なお、「私年号」を当時の王朝に対する対抗的性格の薄いものと定義し、明確な覇者的意志をもって建てられる「偽年号」「僭(窃)年号」などとは区別する場合もある。
日本の私年号
古代年号

日本最初の公年号孝徳天皇の制定した「大化」であるが、中世に成立した寺院縁起・年代記には、大化前代から年号があたかも使用されたもののごとくに記載され、これらを俗に古代年号と呼ぶことがある。古代年号は総じて仏教的色彩が濃く、殊に太子信仰の影響を強く受けていることから、現在そのほとんどは後世の仏家によって仮託された架空の年号であると考えられている。ただし、「法興」だけは例外で、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られる。これが年号か否かの解釈については議論の余地があるものの、聖徳太子を讃仰する僧侶によって使用されたものとみて間違いなかろう。また、「白鳳」「朱雀」は公年号の「白雉」「朱鳥」からそれぞれ派生した年号であると考えられ、殊に「白鳳」は、現在でも文化史上の時代呼称(白鳳文化)として通用している。

なお、江戸後期の鶴峯戊申は著書『襲国偽僣考』において、一連の古代年号を熊襲が使用した僭年号であると主張した。現在の九州王朝説論者の中には、これを高く評価して古代年号が自説に有利な傍証史料(九州年号)たり得ると信じる者も少なくないが、学界からは全く相手にされていない。
中世前期

令制下にて年号制度が確立した後、私年号の出現は12世紀後半の平安末期まで待たなくてはならない。最古の私年号とみられる「保寿」は、平清盛の台頭を背景として藤原氏の息災を祈るために、次いで現れた「和勝」「迎雲」は、ともに治承・寿永の乱(源平合戦)の終結による平和の再来を寿ぐために使用された。鎌倉期の「建教」「永福」「正久」などは、何れも僧侶によって使用されたもので仏教的色彩が濃いが、関東地方でも実例が見られる点に特徴がある。南北朝期の「白鹿」「応治」「至大」などは、地方を拠点とする南朝方またはこれに好意を寄せた(反北朝の)者によって使用された可能性が高く、一方の「弘徳」「永宝」は、北朝年号を勘申する公家間の対立を背景として公年号に対する不満から使用されたものと推測されている。これら中世前期の私年号は残る実例が「元年」のみで、かつ数も1?3例と少ないことから、そのほとんどは使用者個別の願意や祝意を表明したものに止まり、通用圏がさほど広がることはなかったようである。
中世後期

室町幕府による分権体制への移行は地方の自立化を促したが、一部勢力の間では反幕意識を表明するために私年号が使用されたこともあった。具体的には、禁闕の変後に近畿南部の南朝遺臣(後南朝)が使用したという「天靖」「明応」、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の子・成氏を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などがその例である。


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