私宅監置
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私宅監置(したくかんち)とは、日本にかつて存在した、精神障害者[注 1]に対する制度で、自宅の一室や物置小屋離れなどに専用の部屋を確保して精神障害者を「監置」することである。
概要

「私宅監置」とは、「私人が行政庁の許可を得て、私宅に一室を設け、精神病者を監禁する」[1]制度である。病院に収容しきれない精神障害者に関して、患者の後見人や配偶者などの私人にその保護の義務を負わせ、その私宅内に専用の部屋を設けて閉じ込めさせ、それを内務省警察)が管理するという、近代国家における医療制度としては、諸外国にも類例をみない極めて異質な制度だった。江戸時代より存在した座敷牢の合法化ともいえる。

私宅監置が行われた背景は、大きく三つの理由がある[2]
施設・医師の供給不足によるもの。 明治時代?昭和時代中期頃までの精神医療は、病変についてもまだまだ未解明な部分が多く、精神障害者の治療よりも隔離・監禁することを目標としたが、患者数に対し、精神科病院・病棟が未整備であり、精神科医も不足していた。

従来より日本国内において、精神障害は「狐憑き」や「狸憑き」「先祖の祟り・家系の問題」であるというシャーマニズムに準拠する因習が残存していたことよるもの。

日本独特の、「身内のことは身内でなんとかすべき、外に出すのは恥ずかしい」という倫理観からくるもの。


1918年当時、病院に入ることが出来たのはごく少数の富裕層のみで、中産階級以下のほとんどの人は私宅監置、さもなくば加持祈祷などの民間療法を利用していた。私宅監置を行うと、精神病を発症した患者本人の所得が無くなるのはもちろん、監置に当たる家族も消耗するため、貧困家庭だけでなく中産階級においても大きな負担で、最終的に破産する者も少なくなかった[3]

また、ホームレスや生活困窮者の精神病者に関しては、市区町村長にその保護の義務を負わせたため、病院を建てる財政的余裕のない地方都市においては、公立の監置室も設置された。私宅の監置室とほぼ同じ構造で、医者も治療も存在せず患者を隔離するだけの施設もあったが、行路病者収容所などの公立救護所内の精神病室として設けられたものは、多少ながら施薬や治療が受けられたものもある。

当時の東京帝国大学医科大学精神病学教室主任であった呉秀三が「私宅監置」の実態を調査し、1918年に出版された『精神病者私宅監置ノ実況』(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開中)において詳細に報告している。この本で述べられた「わが国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この邦に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし」[4]の言葉は、極めて劣悪であった当時の精神衛生の現状と、現在までに至る日本の精神衛生の原点を示す言葉として語り継がれている。

日本列島では1950年精神衛生法施行にて私宅監置が禁止されたが、アメリカ合衆国による沖縄統治下にあった沖縄県では、本土復帰する1972年まで私宅監置が行われた。そのため、私宅監置に使われた小屋が2018年現在も沖縄県に現存している[5]。2021年3月、この問題を採り上げた映画「夜明け前のうた ―消された沖縄の障害者―」が封切られた。
歴史
座敷牢から私宅監置へ

明治初期まで日本では、精神障害者は狐憑きや先祖の祟りによるものとして、座敷牢に幽閉され、貴族は社寺の楼閣に収容されていた。明治維新太政官布告により西洋医学が導入されると、1874年には医制が発布され、この中で、癲狂院の設立に関する規定があったが、設置は遅々として進まなかった。

だが1883年、諸外国にも「日本で精神障害者は無保護の状態にある」と報道され世間の耳目を集めた相馬事件を受け、世の中に精神障害者の監護の意識が高まる[6]。さらに1885年には、内科医エルヴィン・フォン・ベルツにより「狐憑き」とされる女を診断・治療し、狐憑きは脳障害に起因するヒステリーが原因であると説いた「狐憑病説」を発表する。それ以降、榊俶島邨俊一・門脇真枝・森田正馬を含む精神医学者らによって狐憑病の調査論文が発表され、狐憑病(症)?憑依妄想?祈祷性精神病と、狐憑きは憑依という非科学的現象から、宗教的ニュアンスを含んだ抽象的な病名へと変遷する。

1900年3月に精神障害者保護に関する最初の[注 2]一般的法律である「精神病者監護法」が公布、同年7月1日から施行される。その中で「精神病者を監置できるのは監護義務者(多くは当事者の父母や戸主)のみ、私宅・病院などに監置するには、監護義務者は医師の診断書を添え、警察署を経て地方長官(現在の都道府県知事)に願い出て許可を得なくてはならない」とし、この法律中において「私宅監置」が規定され、多くの精神障害者が長年治療も受けず、不衛生で非人道的な環境に置かれることとなった。
私宅監置廃止へ

精神病者監護法施行の翌年、欧州から帰国した帝大医科大学教授・呉秀三により、1902年には「精神病者救治会」が設立。日本で初めて精神保健運動が行われるようになり、翌年三浦謹之助とともに日本神経学会を発足させる。呉秀三。日本の精神医療の歴史に大きな革命をもたらし、患者の人権を尊重した慈悲深き医療とその功績は現在もなお讃えられている。

呉は1910年より門下生らと6年間にわたって、監置室365室・被監置精神病者361人の1府14県の精神障害者の実態を調べ上げた。1916年には内務省保健衛生調査会が設置され、1918年に呉は樫田五郎と連名で報告書として『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的視察』を内務省に対して提出。1918年当時の日本の14-15万人と推定される精神障害者のうち、精神病院においては5,000人を収容するにすぎず、残りは私宅監置、または神社仏閣などに収容され、医療ではなく祈祷や民間療法によって処置されていた。その原因として、呉は「精神病者監護法の不備と精神病院の不足」を挙げている。

呉は、私宅監置の実態は「頗る惨憺たるもの」で、監置室は「国家の恥辱」なので「速に之を廃止すべし」と訴えた。


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