交響詩『禿山の一夜』(はげやまのいちや、露:Ночь на Лысой горе, 英:Night on Bald Mountain)ニ短調は、モデスト・ムソルグスキーが作曲した管弦楽曲。『はげ山の一夜』とも表記される。
概要交響詩『禿山の一夜』ニ短調(N. リムスキー=コルサコフによる編曲版) (2:51)指揮:パトリック・ピアソン、演奏:MYA コンチェルティーノ・オーケストラ(2015年10月18日)この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。
「聖ヨハネ祭の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグが現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」とのロシアの民話を元に作られている。聖ヨハネの前夜祭は夏至祭の前夜であり、題材としてはシェイクスピアの『夏の夜の夢』と同様であるといえる。
1858年にゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に収める短篇「イワン・クパーラの前夜」(イワン・クパーラは聖ヨハネ祭を意味する)を3幕のオペラ化にする案がムソルグスキーやバラキレフらの間で話し合われたことがあった[1]。
1860年夏の手紙でムソルグスキーはメングデンの戯曲『魔女』(Ведьма)の中に出てくる禿山の魔女のサバトのための音楽を書く計画について語っているが、このときの音楽は残っておらず、現行の『禿山の一夜』とどのような関係にあったかはわかっていない[1]。初版は独立した管弦楽作品として1866年から1867年ごろにかけて作曲された。ムソルグスキーが初めて書いたある程度の大きさを持った管弦楽曲だったが、この曲はムソルグスキーの生前には演奏されなかった。ムソルグスキーはその後この曲を別の作品中で使用するために何度か書き直しているが、それらはいずれも日の目を見なかった[2]。
長らくリムスキー=コルサコフが編曲した版だけが普及していたが、20世紀に入ってムソルグスキー自身の手による原典版が再発見されると、こちらもムソルグスキーの典型的作風を示すものとして広く知られるようになった。 ムソルグスキーの楽曲の例に漏れず、『禿山の一夜』も何度もお蔵入りと改訂・編曲が繰り返された。その結果、今日までに様々なバージョンが残されている状態にあり、それぞれ特徴ある楽曲となっている。時に「ムソルグスキー・パラノイア(偏執病)」と揶揄されるほど熱心に彼の作品を取り上げた指揮者クラウディオ・アバドは、これらの4つの版についていずれも録音を残している。 未完のオペラ『サランボー』において、初めて『禿山の一夜』のモチーフが登場したとされている。独立した曲としては明確に現存せず、アバドが『サランボー』の一節「巫女たちの合唱」として録音しているにとどまっている。『禿山の一夜』の原曲と言えるのは第3幕第1場の最後あたりという。 音詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山』(露:Иванова ночь на Лысой горе, 英:St. John's Eve on Bald Mountain)は、1866年から1867年にかけて作曲され、1867年6月23日、まさに聖ヨハネ祭の前夜に作曲を完了した[3]。1866年3月にリストの『死の舞踏』を聞いたことがきっかけで作曲されたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフにあてた手紙には、「魔物たちの集合?そのおしゃべりとうわさ話?サタンの行列?サタンの邪教賛美?魔女たちの盛大な夜会」という4つの場面が曲想として構成されていると記されている。サバトで終わるところはベルリオーズ『幻想交響曲』の最終楽章と共通する[5]。 バラキレフは、その粗野なオーケストレーションを批判し、修正を求めたが、ムソルグスキーが修正を拒絶したために演奏を断った[2]。
オーケストレーションと編曲の変遷
『サランボー』でのモチーフ(1864年頃)
作曲者による原典版(1867年)
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