logo福知山城
(京都府)
外観復元天守
別名横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造連郭式平山城
天守構造複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築)
現在:外観復元(1985年(昭和60年)再)
築城主明智光秀
築城年1579年(天正7年)
主な改修者有馬豊氏
主な城主明智氏、朽木氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
指定文化財福知山市史跡(石垣部分)
再建造物大・小天守・釣鐘門
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度17分48.5秒 東経135度7分46.8秒 / 北緯35.296806度 東経135.129667度 / 35.296806; 135.129667
福知山城(ふくちやまじょう)は、丹波国天田郡福知山[1](京都府福知山市字内記内記一丁目周辺)にあった日本の城(平山城)。江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定[2]。2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。
概要隅櫓風城郭建築/福知山市佐藤太清記念美術館
現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。
現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。また福知山城公園親水広場内には2023年初夏に福知山鉄道館ポッポランドが移転整備されることになっている[3]。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。
市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。
東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップされている。また多数の桜が城周辺に植林されている。 小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房
歴史・沿革
中世(室町時代)
中世後期(横山城の戦い)「黒井城の戦い」も参照
明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。
これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、逃走する途中に林半四郎らに川北周辺で襲われ戦死した。これを機に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。
明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城の留守居役となっていたらしく、羽柴秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。明智光秀は山崎の戦いで敗北し後に殺害された。明智光秀の在城期間は3年間だけであった。
中世末期(安土桃山時代)田辺城の復元二層櫓
福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いにて東軍が勝利すると、徳川家康の許しを得た細川忠興は福知山城を落城させ、小野木重勝を亀山城下の寿仙院で切腹させた。丹波国福地山<写本>(絵図は左が北側)/名古屋市蓬左文庫蔵 関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の領主となった。 山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として改修を行い、現在に残る姿とした。 しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。 寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、1869年(明治2年)まで約200年に亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。 復元天守前の写真(天守台には移築された銅門続櫓)現在の伯耆丸から見た本丸 廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された[4]。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。
近世(江戸時代)
現代