福留繁
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生誕1891年2月1日
日本鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現・大山町
死没 (1971-02-06) 1971年2月6日(80歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
除隊後防衛庁顧問
水交会理事長
墓所多磨霊園
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福留 繁(ふくとめ しげる、1891年明治24年)2月1日 - 1971年昭和46年)2月6日)は、日本海軍軍人海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将
生涯

1891年明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。1905年(明治38年)4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった[1]1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期生として入校。1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生[注釈 1]

1924年大正13年)2月1日、少佐に昇進し、海軍大学校甲種24期に入校。1926年(大正15年)11月25日、首席で卒業。詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種24期」を参照

1939年昭和14年)11月15日、海軍少将へ進級、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。連合艦隊司令長官山本五十六大将が合同訓練の際に「あれ(飛行機)でハワイをやれないか」と呟いた際に、傍にいた福留参謀長は「それよりは艦隊全部を押し出しての決戦の方がいいと思います」と言った。
太平洋戦争
軍令部第一部長

1941年(昭和16年)4月10日、軍令部第一部長。福留は、海大の成績優等卒業生であり、戦略戦術の神様と称えられていたが、理論・作戦に福留独自のものは残っておらず、独創者ではなくあくまで祖述者であった[2]。戦艦による日本海海戦のような大勝利のために戦略戦術を立て、真珠湾攻撃などの空母機動部隊の活躍後もやはり決戦主力は戦艦の大艦巨砲で、機動部隊はその補助に過ぎないと考えており、その力関係はミッドウェー作戦でもなお変わることはなかった[3]

12月8日、太平洋戦争勃発。1942年(昭和17年)4月、第二段作戦立案の際に、ハワイ攻略を目指す連合艦隊が求めるMI作戦(ミッドウェー作戦)と同時にアリューシャン方面の米軍進攻阻止を目的としたAL作戦を軍令部が加えた件に関して、福留は「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した。」と回想している[4]。11月1日、海軍中将へ進級。
連合艦隊参謀長

1943年(昭和18年)5月23日、連合艦隊参謀長。海軍甲事件に伴い連合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将に要請された人事だった。古賀長官は開戦以来横須賀にいて実戦をほとんど知らなかったこともあり、海大恩賜のエリートで戦略戦術の神様と評価が高かった福留に頼り切っていたが、刻々と変化し、劣勢の戦局に対応できる能力が福留には欠けており、いつまでも古い戦艦至上主義の考えから抜けきれなかった[5]

1943年11月以降に実施されたギルバート諸島沖航空戦ブーゲンビル島沖航空戦において連合艦隊は大戦果を報告したが、これらは戦果誤認であった。当時の軍令部第一部長中澤佑少将によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が福留参謀長名で打電(この件で福留自身にいかなる思惑があったのか未だに公表されていない)され、けっきょく反論なくうやむやになり、1944年10月に福留が第二航空艦隊長官として実施した台湾沖航空戦でも誤認戦果をそのまま報じることになったという[6]。詳細は「海軍乙事件」を参照

1944年(昭和19年)3月31日、海軍乙事件発生。連合艦隊は内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受け、福留ら司令部要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官・古賀峯一の乗機は行方不明となり、福留の乗った二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。


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