福田衣里子
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日本政治家福田 衣里子ふくだ えりこ
長崎市公会堂での演説
生年月日 (1980-10-30) 1980年10月30日(43歳)
出生地長崎県長崎市
出身校長崎県立長崎西高等学校卒業
広島修道大学中退
前職衆議院議員
所属政党(民主党→)
みどりの風→)
日本未来の党
衆議院議員
選挙区長崎2区
当選回数1回
在任期間2009年8月31日 - 2012年11月16日
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福田 衣里子(ふくだ えりこ、1980年10月30日 - )は、日本の元政治家。元衆議院議員(1期)。

薬害肝炎九州訴訟原告団代表、厚生労働省「薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医薬品行政のあり方検討委員会」委員を務めた。
経歴
生い立ち

1980年10月30日長崎県長崎市に3人兄弟の末っ子として生まれる。幼少時代は父の仕事の関係でロンドンに在住していた。

1999年長崎県立長崎西高等学校では空手部に所属するなど、スポーツに明け暮れていた。ちなみに空手は黒帯初段である[要出典]。高校卒業後、母親の郷里にある広島修道大学人文学部人間関係学科心理学専攻に入学。学内の学生食堂でアルバイトをしていた経験もある。しかし「学ぶ意義が分からなくなった」と大学を休学し[1]、3か月あまり単身でフランス旅行した[1][2]。この旅行でパンに感動し、パン屋開業の夢を抱き、帰国後は大学のある広島ではなく長崎のパン屋で「修行」をはじめた[2]。2010年、広島修道大学同窓会の同窓会員規定を充たしていることから、同窓会員に名を連ねることとなった。
薬害肝炎とのかかわり

2001年国会では肝炎問題の追及が行われており、厚生労働省は血液製剤を血友病以外の患者に投与した可能性のある医療機関名を公表したばかりであった。このリストの中に福田が出生時に血液製剤を投与された病院があったため、両親にすすめられて4月に検査を受けたところ、C型肝炎ウイルスへの感染が判明した。翌2002年に大学を中退し、インターフェロン治療を開始した[2]

2004年4月に実名を公表し、薬害肝炎九州訴訟の原告となる。当初の裁判では原告団のごく一部しか訴訟が認められなかったが、講演活動の他、各種メディアに登場するなどして精力的な活動を続け、原告団全員に訴訟が認められるようになった[3][4][5]

薬害肝炎の問題に携わっていく中で2006年ごろ、「悪しき政治によって命が奪われることはあるが、政治が正しく機能すれば多くの命が救える。それこそが政治の本来の使命だ」と思い、政治に関心を持ち始めた[6]

この間、二度目のインターフェロン治療を行い、ウイルス反応は陰性となり、経過観察の結果、肝炎は完治して飲酒が可能な状態にまでなった。
政治家として

山田正彦から打診があったことがきっかけとして[6]2008年9月18日民主党小沢一郎より第45回衆院選への出馬要請を受け、これを受諾。長崎2区に民主党公認候補として出馬する事が決定し、長崎市内で記者会見を開く。

薬害肝炎訴訟の原告に対する肝炎基本対策法案は2009年に民主党の審議拒否で廃案になったが、福田はこれを容認する発言(法案に国の責任を明記しなかった当時の与党自民党への不満など)を自身のブログにて行った。薬害肝炎の原告団はこの審議拒否について抗議声明を発表している。

2009年8月30日、第45回衆院選に長崎2区より出馬。薬害肝炎被害者としての自らの経験から、「『命』を奪うのも政治なら『命』を救うのも政治」と主張。自由民主党公認の久間章生から議席を奪い、28歳で初当選(一部報道では「エリのクマ退治」とも言われた[7])。小沢ガールズと報道される。久間は重複立候補した比例代表でも復活できなかった。


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