福田恆存
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福田 恆存
ふくだ つねあり

誕生 (1912-08-25) 1912年8月25日
東京市本郷区駒込東片町
(現在の東京都文京区[1]
死没 (1994-11-20) 1994年11月20日(82歳没)
神奈川県中郡大磯町東海大学医学部付属大磯病院[1]
墓地妙大寺
職業作家
翻訳家
評論家
劇作家
演出家
言語日本語歴史的仮名遣
国籍 日本
教育文学士東京帝国大学
最終学歴東京帝国大学文学部英文学科卒業
活動期間1937年 - 1994年
主題文芸評論
戯曲
英米文学
文学活動国語国字問題
代表作『藝術とはなにか : 藝術と文明』(1950年)
平和論にたいする疑問』(1955年)
『人間・この劇的なるもの』(1956年)
『私の恋愛教室』(1959年)
私の國語ヘ室』(1960年)
解ってたまるか!』(1968年)
『私の英國史』(1980年)
演劇入門』(1981年)
主な受賞歴岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1961年)
菊池寛賞(1980年)
芸術院賞(1981年)[2]
デビュー作『作家の態度』(1947年)
配偶者福田敦江
子供福田逸(次男)
影響を受けたもの

ウィリアム・シェイクスピアD・H・ロレンスG・K・チェスタトン小林秀雄時枝誠記

影響を与えたもの

丸山眞男[3]吉本隆明[4]松原正久米明中村保男西尾幹二土屋道雄西部邁柄谷行人[5]浜崎洋介

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福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年大正元年〉8月25日 - 1994年平成6年〉11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家日本芸術院会員。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事[1]などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。
概要

保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家[6]

また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲翻訳演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ[7]

文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られる。産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。

「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[8]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
経歴
出自と教育

1912年大正元年)8月25日、東京市本郷区駒込東片町にて、埼玉県大宮出身の東京電燈社員の父・幸四郎、伊豆出身の石工の子孫である母・まさの長男として中間階級の家庭に生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][9]。自然豊かな下町・神田で育ち、一家はしばしば劇場に通った。

1919年(大正8年)、東京市立錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)に学区外入学。大正デモクラシー教育の先進校であった同校では自学自習、自由研究、自由画などが導入されており、福田はリベラルな先進的教育を受けるが、小学生ながらも「新教育理論」に陶酔する教師に対して違和感を抱いていた。また、1922年(大正11年)の関東大震災により下町の気風は消え、福田は「故郷喪失者」となった。[10]私には今の東京は勿論の事、戰前の東京も故クではない。私の故クは關東大震災前の東京である。つまり、私は故ク喪失者といふことになる。 ? 「ふるさとと旅」『旅』(1978年)

1925年(大正14年)4月、第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)入学。高橋義孝と同級。同校でもリベラルな先進的教育を受けるが、校風の「自主の精神」には息苦しさを覚えた。当時の二中校長高藤太一郎により、優秀な教師が集められ、教師陣には英語の落合欽吾、岡倉由三郎、上田義雄、国語の横山藤吾、時枝誠記西尾実、福永勝盛、東洋史の志田不動麿がいた。1929年(昭和4年)、四修で旧制浦和高等学校の受験に挑戦するが、落第した。[11]

1930年(昭和5年)、旧制浦和高等学校文科甲類入学。当時の旧制学校昭和恐慌もあり同盟休校が盛んに行われた「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の時代だったが、福田自身は左翼的な学生運動には関わらなかった。小説から戯曲に関心を移し、高校時代に劇作家を志す。高校三年時に執筆した「我国新劇運動の過去と未来」では、小山内薫没後まもない演劇界の左翼・マルクス主義傾向を批判している。また同時期に、アドルフ・アッピア(舞台演出家)の"L'Oeuvre D'art Vivant"の第一章を英訳版から重訳している。1932年(昭和7年)開設の築地座に応募作品「或る人の街」を送り、佳作に選ばれた。[12]

1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。


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