福永祐一
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福永祐一
国内最終騎乗後セレモニーにて
(2023年2月19日)
基本情報
国籍 日本
出身地滋賀県栗太郡栗東町
(現栗東市
生年月日 (1976-12-09) 1976年12月9日(47歳)
身長160.0 cm
体重51.0 kg[1]
血液型B型[2]
所属団体日本中央競馬会
初免許年1996年
免許区分平地・障害[3]
引退日2023年2月28日
通算勝利19497戦2636勝
重賞勝利201勝[4]
(中央160勝、地方36勝、海外5勝)
G1級勝利45勝[4]
(中央34勝、地方6勝、海外5勝)
経歴
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福永 祐一(ふくなが ゆういち、1976年12月9日[5] - )は、日本中央競馬会(JRA)栗東所属の元騎手で現在は調教師である。は現役時代「天才」と呼ばれた元騎手の福永洋一[6][7]、叔父に元調教師の福永甲福永二三雄、元騎手の福永尚武、北村卓士[8]、義従兄に調教師の福永敏。妻は元フジテレビアナウンサー松尾翠[9]。2016年7月より夫人も所属している芸能事務所のホリプロとマネジメント契約を結んでいる[10]。160 cm, 52 kg[11]。義父は陸上自衛隊松尾幸弘陸将

以下、父である福永洋一(洋一)、叔父である福永甲(甲)、福永二三雄(二三雄)、福永尚武(尚武)と区別するため、本文中はとくに「祐一」と表記する。
来歴
騎手デビュー前

栗東町立金勝小学校を卒業[12]近江兄弟社中学校時代はサッカーをしていた[13]。中学校二年次に騎手になることを決め、母の猛反対を説得して[13]競馬学校に入学。その前年にも受験していたが、実技テスト前に骨折し、翌年に再受験[14]近江兄弟社高校を中退し[15]、12期生として競馬学校へ進む[16]。同期にはJRA初の双子騎手柴田大知柴田未崎、JRA初の女性騎手細江純子牧原由貴子和田竜二などがいる[17]
騎手時代

1996年北橋修二厩舎でデビュー[5]3月2日中京競馬第2競走でマルブツブレベストに騎乗し初騎乗初勝利を挙げると続く第3競走でもレイベストメントで勝利し、史上2人目のデビュー2連勝を飾る[18][19]。11月には1987年武豊以来となる新人50勝を達成[20]。12月、第10回香港国際カップのシーズグレイスで海外初騎乗(9着)[21]。この年は最終的に53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を獲得した[18]

1997年7月22日川崎競馬場(スパーキングナイター)で行なわれた第44回エンプレス杯でシルクフェニックスに騎乗し重賞初制覇。同年11月15日キングヘイローで第2回東京スポーツ杯3歳ステークス(現東京スポーツ杯2歳ステークス)に勝ちJRA重賞初勝利[22]。そのキングヘイローで1998年、第65回東京優駿(日本ダービー)初騎乗。

1999年の第59回桜花賞プリモディーネに騎乗しJRAGI初勝利[5]。しかしその翌週、中京競馬場で施行された第33回小倉大賞典の本馬場入場の際に落馬事故で左腎臓摘出というけがを負う[23][24]。7月に復帰し[25]、第51回朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を自厩舎の所属馬エイシンプレストンで制した[26]

2005年は第22回フェブラリーステークスメイショウボーラーで、第65回桜花賞と第10回NHKマイルカップラインクラフトで、第66回優駿牝馬シーザリオで制したほか、フサイチリシャールで第57回朝日杯フューチュリティステークスを勝利した[27]。またシーザリオでは同年7月3日 [28](現地) アメリカ合衆国ハリウッドパーク競馬場で行われた第4回アメリカンオークス招待ステークスにも優勝し、日本生産・調教馬初のアメリカG1競走優勝という偉業を成し遂げた[29]

2006年第31回エリザベス女王杯ではフサイチパンドラに騎乗[30]カワカミプリンセスに1位入線[注 1]を許したものの同馬は審議の結果進路妨害で12着に降着となり、フサイチパンドラが2着から繰り上がり優勝[30]。これにより史上6人目、初騎乗から10年8か月10日は藤田伸二の記録を抜いて史上最速でJRA G1全5場制覇。また同年に新設された第1回阪神カップをフサイチリシャールで制し、初代王者となった[31]

2007年には、JpnI競走の優駿牝馬でローブデコルテに騎乗し優勝[32]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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