福永洋一
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福永洋一
1978年10月21日、於京都競馬場(29歳)
基本情報
国籍 日本
出身地高知県高知市
生年月日 (1948-12-18) 1948年12月18日(75歳)
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎京都栗東武田文吾(1968年 - 1981年)
初免許年1968年
免許区分平地(初期には障害の免許も保持)
騎手引退日1981年
1979年3月4日(最終騎乗)
重賞勝利49勝
G1級勝利9勝
通算勝利5086戦983勝
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福永 洋一(ふくなが よういち、1948年12月18日 - )は、高知県高知市出身の元騎手

※兄の福永甲福永二三雄、福永尚武や息子の福永祐一と区別するため、本文中はとくに「洋一」と表記する。松尾翠は義理の娘(祐一の妻)にあたる。
経歴
少年時代

実家はかつて土地一帯の地主であったが、太平洋戦争後にGHQが発令した農地解放政策などにより没落し、洋一出生時には困窮を極めていた[1]。父は放蕩癖のある人物であり、洋一の5歳時の1953年の夏に母が失踪し[2]、以降は姉により育てられた[1]。その姉は高知競馬場所属の騎手・松岡利男と結婚し、福永家と競馬界との関係が築かれた[3]。次いで長兄・が中学卒業後に京都武平三厩舎に入門、次兄の二三雄大井、三男の尚武が船橋で騎手となった。一人残った四男の洋一はそのまま高知で父と暮らしていたが、父は1957年脳溢血で死去。これを受け、洋一は姉が嫁いだ松岡家に身を寄せた[4]。以降の少年時代は、高知競馬場内の厩舎で手伝いをしながら過ごした。

1960年に高知市立潮江中学校に入学すると、この頃から「将来は騎手になる」という目標を口にするようになり[5]、中学3年の頃には甲の師匠・武平三を頼って京都府に移り、後に馬事公苑でも同期生となる武永祥京都市立桃陵中学校に通った[6]。中学卒業を控えた1963年秋、永祥と共に馬事公苑騎手養成長期課程を受験。合格後の入所式では、平三が永祥と洋一、双方の保護者として出席した[6]
馬事公苑時代

騎手課程第15期生として入所後は、永祥に加え、岡部幸雄柴田政人伊藤正徳らと同期生となった。後に岡部、柴田はそれぞれリーディングジョッキーを獲得、伊藤は通算300勝に満たない成績ながら日本ダービー天皇賞(秋)といった大競走を制し、15期生は特に「馬事公苑花の15期生」と称されるようになる。教官のひとりであった木村義衛は、「騎手志望の少年は、騎手として達者型と上手型の二通りがあるようです。達者型は運動神経が発達していて、先天的に騎手向き。上手型は努力で上手になる型と言えます。そのどちらでもなかった子供は、私の知る範囲ではプロになっていないし、なれません。岡部と福永は達者型というのか、巧かった。柴田はどちらかと言えば上手型でした」と語っている[7]

2年次の1965年に厩舎の実地研修が始まる際、馬事公苑を訪れた栗田勝が洋一の才能に目を付け、兄の甲を通じ、栗田が所属する京都・武田文吾厩舎に入門するよう働きかけた[8]。しかし甲の記憶によると、栗田は洋一を見ていないともいう[9]。これを受けて洋一の研修は武田厩舎で行われたが、研修期間中は栗田が騎乗するダイコーターと、その弟弟子の山本正司が騎乗するキーストンが日本ダービー出走を間近に控えていた最中であり、厩舎全体に充満していた緊張感は洋一に強い印象を残した[10]。研修期間修了後に騎手免許試験に臨んだが、この年は落第。武田厩舎での1年間の浪人生活を経て、1966年に再受験して合格し、武田厩舎所属騎手としてデビューを迎えた。武田厩舎は当時関西で最大の名門厩舎であり、伊藤正徳は、ダービージョッキーの伊藤正四郎を父に持つ2世騎手であり、関東の名門・尾形藤吉厩舎に入った自分と洋一が最も恵まれたスタートだったと述べている[11]
騎手時代
新人騎手として

1968年3月2日の京都第2競走・4歳未勝利で初騎乗を迎え、シュクホウで3着。2週間後の同17日の京都第3競走・4歳未勝利で同馬に騎乗して初勝利を挙げた。初年度は全国82位の14勝を挙げ、中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞するなど幸先の良いスタートを切ったが、この頃の騎乗は、他馬に危険がおよぶような粗雑な印象を周囲に与えるものであり、他の騎手からの評判は芳しくなかった[12]7月20日には競走中に大きく斜行して後続馬の進路を塞ぎ、騎手が落馬する事態を引き起こし、開催4日間の騎乗停止処分を受けた。この最中、他の騎手から洋一の騎乗についてたびたび苦情を受けていた栗田が、競馬会の採決委員・筧丈夫に対し、騎乗の検証と、必要に応じて注意勧告を行うように依頼した。しかし筧がパトロールフィルムを精査した結果、粗雑に見える騎乗は、ほとんどがぎりぎりの範囲ながら規則内に収められており、「勝利への最善を尽くしている現れであり、あとはモラルの問題」という結論に達し、注意は行われなかった[12]

2年目の1969年も順調に勝利を積み重ねていたが、5月4日の京都第7競走・つつじ賞でキタヤマニシキに騎乗した際、1位入線後に負担重量の不足が判明し、3か月間の騎乗停止、さらに師匠の武田から1か月間の騎乗自粛を通告された。この期間中、洋一は大井で騎手を務めていた次兄・二三雄の元をたびたび訪れ、佐々木竹見の騎乗を初見の競走から「あの人は凄く上手い」と思い、佐々木のスタート勘、ペース配分の妙などに非常に感心していた[13]。復帰後は武田の意向により札幌で騎乗し、初経験のダートの乗り方を二三雄に教わり、開催前半で次々と勝利を重ねた[14]。しかし二三雄から伝授された乗り方を愚直に繰り返したため、開催後半に入り失速する。ここで二三雄に再度の教えを請うた際、「周りの騎手だって馬鹿じゃない。同じ作戦ばかりじゃなく、たまには逆をいってみろ」と窘められ、以降、臨機応変の騎乗を身に着けていった[15]。札幌開催を終えて関西に戻ると、以降は安定して勝利を重ね、この年45勝を挙げて全国11位と躍進した。
リーディングジョッキーとなる

3年目の1970年に入ると洋一の騎乗を希望する馬主が増加し、また栗田や安田伊佐夫といった兄弟子が、良馬を選んで優先的に洋一に騎乗させるなど厩舎からの援助も受け[16]、春先からリーディング争いでトップの位置を占める。最終的には86勝を挙げ、初めてリーディングジョッキーの座を獲得[17]。同年3月1日には京都4歳特別でタニノモスボローに騎乗し、重賞初勝利を挙げている。

1971年もリーディングを独走していたが、秋まで重賞勝利がなく、一部では「数でこなしただけの勝ち鞍漁り」とも揶揄されていた[18]。しかし10月に入り、ニホンピロムーテー神戸杯京都新聞杯を連勝。11月クラシック最終戦・菊花賞では、距離が不向きかつ追い込み馬と見られていた同馬を、残り1500メートルで先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、GI級レース・八大競走初制覇を果たした。これは洋一の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして洋一は「天才騎手」へと成長したともされる。柴田政人はこの時の洋一を評して、「これまでの洋一の騎乗は、荒っぽ過ぎると言って不評だった。ラフだと言われるのは自信のなさの裏返しだったのだろうが、この一戦でそれまでの迷いが吹っ切れて、自分の騎乗の方法論に自信を持ったと思う。ラフだという評価もこの後は消え、天与の才能を、これから大きく花開かせたのだ。その意味で、この一戦は洋一にとって凄く大きなものだった」と評している[18]

1972年の天皇賞(秋)ではヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの道中40馬身差にも及んだ逃げをゴール直前でアタマ差捉えて優勝。その後はしばらく八大競走制覇からは遠ざかったが、1976年、洋一が騎手生活中の最強馬と評した[19]エリモジョージ天皇賞(春)を制した。秋には天馬・トウショウボーイの騎乗も任され、神戸新聞杯京都新聞杯を連勝している。また、この年の2月16日に日迫良一の姪・北村祐美子と結婚。12月9日、長男・祐一が誕生した。1977年春にはインターグロリア桜花賞ハードバージ皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で内埒沿いのわずかな隙間に馬を突入させ、2着のラッキールーラに騎乗した伊藤正徳、3着のアローバンガードに騎乗した柴田政人が、それぞれ「ラチの上を走ってきたのかと思った」「神業に見えた」と語るなど[20]、福永の代表的な騎乗に挙げられている。秋にはインターグロリアでエリザベス女王杯にも優勝するなど当年、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録。1978年にはオヤマテスコで桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新した。
落馬事故

1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げ、リーディングのトップを独走していた。3月4日阪神第4競走サラ4歳新馬でエイシンタローに乗って983勝目を挙げた後、メインレースの毎日杯で洋一はマリージョーイに騎乗した。最後の直線において、斉藤博美が騎乗していたハクヨーカツヒデが前の馬に乗り掛かる形となり、まず斉藤が落馬。さらに後方から走ってきたマリージョーイの脚が斉藤に接触し、洋一は大きく前方にのめったマリージョーイの背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明となった。洋一は斉藤の落馬に素早く反応し、これを避けようとして馬の進路を変えたが、その時の進路は、落馬時に騎手が落ちた方向(内埒沿い)から考えて、騎手を避けることの出来る外側の進路であった。しかしながらこの時は、斉藤が通常とは逆の、馬が進もうとした外側に転がってきてしまい、避けることが出来ずに馬が脚を引っかけたことが事故の原因であった。もし落馬への反応が遅れて真っすぐ走るか、斉藤が通常と同じ内埒沿いに転がっていれば、事故は避けられていたと言われている[21]

この競走を実況していたのは、洋一と個人的にも親交があった杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)であった。事故の瞬間は「おーっと1頭落馬、1頭2頭落馬、2頭落馬、マリージョーイも落馬、マリージョーイ落馬、マリージョーイが落馬しておりますが、ハシハーミット先頭、ハシハーミット先頭」といった、平静に近い実況を通した。しかしこれは平静を努めたのではなく、「私は普通の落馬だと思っていました。彼は調教でもよく落ちてはケロッと起き上がっていたので、この時もそんな感じかなと思っていたのです」と、当時の心境を語っている[22]
救命活動

事故発生後、洋一は直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され、当直の2人の医師と、馬主として毎日杯にケイシエルを出走させていた医師・内田恵司により救命措置が行われた。しかし舌からの出血が気管に流れ込み、呼吸障害による窒息死の危機が差し迫っており、この前日、まったくの偶然に納入されていた新たな医療機器のひとつである気道チューブを気管に挿入して気道の確保を行い、危機を回避した。しかし、瞳孔は散大し、血圧は低下、自発呼吸も極めて薄弱であったことから、3人の医師は、洋一が脳に深刻なダメージを負っており、早く医療設備の整った病院で治療しなければならないと判断し、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに尼崎市関西労災病院に搬送された。救急車には安田伊佐夫と松本善登が同乗し、2人とも搬送中の治療に協力した。病院へ到着後、安田から武田と裕美子に対して、洋一が落馬して入院する旨が伝えられた。しかしこの時点では、2人は怪我がそれほど重篤なものとは考えておらず、武田は「ああ、また落ちたのか」と漏らすなど、安穏としていた[23]。病院に到着後に舌部の手術を受け成功するも、目の対光反射もなく瞳孔が開いたままで意識の回復が見られなかった。エックス線検査の結果は頭蓋骨骨折とみられ、この時点で危篤状態となっていた[24]。しかし、その後は徐々に容態は安定し、同年12月には医師の許可を得て短期間ではあるが久々に自宅に戻り、正月を迎えた[25]
リハビリ生活

約1年間のリハビリにより、1980年9月、数歩ではあるが事故以来初めての自力歩行をする[26]と、12月には義父の「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復した[27]。2年後の1981年に騎手を引退。その後も徐々にではあるが回復を続け、1984年10月には家族と武田が見守るなかで、栗東トレーニングセンター内の角馬場で約5年半ぶりに馬に跨った。この時、馬上で、かつて好んで歌っていた『南国土佐を後にして』を口ずさんだという[28]


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