福永法源
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福永 法源(ふくなが ほうげん)、本名:福永輝義[1](ふくながてるよし)、別名:国司院 常照、1945年昭和20年〉4月5日 - )は、法の華三法行の設立者、元代表[2]。集会での「最高ですか!」の掛け声で知られる。「天の声(天声)が聞こえた」として法の華三法行を設立。1987年静岡県宗教法人の認証を受ける。信者の足の裏をみて、病気などの悩みを言い当てる"足裏診断"を行い、研修への参加や献金を勧めるなどの活動を行っていたが、信者に対する巨額詐欺事件でに問われ、2008年実刑判決が確定し栃木県黒羽刑務所服役。刑務所では真面目な態度で刑期が短縮され、2014年3月に出所[3]。現在は団体名を「第3救済 慈喜徳会」と変え、活動を続けている[4][5]

2015年4月には、復活祭を行うなど本格的に活動を再開、Twitter「70億ジャーナル」を始め、Facebook(その後、削除)[6][7]YouTube[8]など、多数のソーシャルメディア、公式ホームページ[9]を開始、健在ぶりをアピールした。同年には自身の半生を描いた映画『塀の中の神様』を制作したが、その後は表舞台からは姿を消す[5]
略歴
生い立ち

1945年4月、山口県に生まれる[10]。父親は戦死し、幼少期より生活苦と吃音により苦悩を味わう。1960年ころ、母親とともに地元の自然の泉、生長の家などの教団に入信した[10]。後に福永が教団を興した際には、自然の泉がモチーフになったと言う見方があり、自然の泉では、宇宙創造主の言葉を「親声」と呼び、法の華では、天の言葉を「天声」と称する、自然の泉では、「まごころ」と称して信者に額縁や掛け軸などを購入させるのに対して、法の華では、「観(おも)いの定め」と称して額縁30万円、掛け軸などを購入させる、両教団とも、金を出さなければ「地獄に落ちる」などと迫る、福永が「天行力」と呼ぶ“超能力”は、自然の泉の「親光泉(しこうせん)」と似ている、などといった共通点が指摘されている[11]

山口県立宇部工業高校を卒業後、東芝の子会社である東芝アンペックスに勤務する傍ら、法政大学短期大学部を卒業。東芝アンペックスは約5年間勤務した後に退職した。1975年、24歳の時に電気関連会社「東和技研工業」を起業し、青年実業家として話題を集め、福永自身によれば「奇跡の会社誕生」と謳われたものの、手形詐欺に遭い、1979年に倒産。すべての財産を失う[10][12]
法の華 創立後

1980年1月6日深夜、天声を聞いたとして、法の華を創立した[10]。検察の主張によると福永の実母が「輝(てる)ちゃんに特別な声がきこえるという事で活動しよう」と持ちかけたことで発足したとされるが、裁判では福永本人は否定している。

1月6日深夜2時の天声とは、以下のような内容であった。「このままでは人類は行き詰まり、政治でも経済でも医学でも道徳でも科学でも救われない。今こそ、大自然を生かし続けている力、そのものがと定まり、釈迦キリストに続いて最後の救済者、法源を誕生させた。法源の法とは天地の法則にある、源とは生活の中での人間になる姿、よってこの地上に生かされている人間は元々、人間法源なり。目に見えないものを見よ、耳に聞けないものを聞け、成(い)かされ成かす法源(ちから)を発見せよ。人間とは何か、人間が人間として生きる基本は何か、人生を歩むうえで一番大切なことは何か、人間は元々喜びの表現体である。これすべて天声なり、法源よ、お前は天のパイプ役である、天声を聞きそのまま人々に伝える役目が法源としての人生の使命だ」[13]天声「白い紙を30枚束ね、それをクリップで3か所とめよ。それを人々に配れ。観(おも)いの定めは3500円以上」[13]この天声を聞いた時には、正直、天声の意のままに動くしかないと決めていた法源は首をひねった。白い紙を30枚束ねただけのものが、果たして3500円以上で売れるのか、3日間その天声には従わないでいた。白い紙は一応購入したものの、それを束ねることはしなかった。ところが、すぐに次の天声が響き渡った。「お前は何をやっているんだ!早くしなさい」法源は天声に急き立てられ、白い紙を急いで30枚ずつ急いで束ね、3か所クリップで止めた。しかしそれだけではどう見ても体裁が悪く思え、表紙らしく見える厚紙を上に付けてみた。それが天法力三法行の原型であった[13]。ある日、税理士行者が会わせたい人がいる、と言って法源の下を訪ねてきた。法源は当時、名刺などは持っておらず、代わりにその三法行を持参していた。それをテーブルの上に置き、相手の来るのを待った。訪問者が現れ法源の前に腰かけた。彼は当時、インド哲学仏教研究の国際的権威である高名な教授だった。教授はテーブル上のその紙の束に興味を示し、「それなんですか」と聞いたので、法源は内心冷や冷やしながら差し出すと教授はそれをパラパラめくり、しきりに唸り、「一体全体、これは誰が作られたのですか?」と聞いた。その本を綴ったのは確かに法源だったが、作れと示したのは天声であったため法源は思わず「天声です。すみません」と答えた。教授はもう一度念を押すように「天声って、本当に誰が作ったのですか。これは釈迦がいちばん解けなかったことが現れてるんですよ。何も書いていない紙が必要なんです」と言って盛んにそれをめくった。法源はその言葉に面くらい「それはどういうことでしょうか」と問い返したところ、教授は分かりやすく丁寧に説明した。「書いてあるものを読むだけでは頭に入るだけである。ところが何も書いていないから、自分で書くしかない。書けば身に付く。これがというものですよ」と答えた。「それは」と教授は一瞬言葉を止めたのち、さらにこう続けた「有るようでない。無いようである。これがの世界なんです。まさにこれは釈迦が説きたかった世界の実態なのです」。法源は説明を聞きながら誇らしさを感じていたという。しかし、それをやらせたのは天声であったため、法源は天声に従って、三法行を作ったことを伝えた。「天声ですか」と教授は少し訝しげにつぶやいた。法源は天声を受けたこと、授かった天行力のこと、三法行のことなどを懸命に伝えた。それを聞いた教授は、しっかりと頷きながら、「瞑想も、写経も、読経も越えたものだ」と説明した。法源は天声の奥深さに身震いし、自分の中に三法行が実感として広がるのを感じた[13]

著書「最高への道標」との相違

以上は、2015年2月6日にアップロードされた「70億ジャーナル」に基づくものだが、1995年5月25日発刊の著書『最高への道標』では、以下の相違点が見られる。

最初の天声は、福永が毎年大みそかから1月2日まで心身を清める目的で古寺にこもりを行っている間の出来事であるとしている。著書では、この行の際に重大な天声を聞くことが多く、それまでにも釈迦キリストが現れることは何度かあり、さらに朝比奈僧正や良寛も現れたが、空海は初めてであったと記している。空海は目も眩むような光とともに満面の笑みを浮かべ現れ、こう言った[14]。「私もあなたと同じく、迷える衆生を救うため、この世で事行をなした。しかし救済の真理を衆生に完全には伝えられなかった。その無念も、ようやく晴らされる時が来た。天があなたを通し、衆生救済への究極の行を知らしめたからである」[14]

この時、福永は空海より三法行を広め、人類救済を成し遂げるよう、言いつかったのだという[14]

さらに、著書では「白い紙を30枚束ね、それをクリップで3か所とめよ…」との天声を聞いたのは、同日ではなく、3月末であるとしている。また、ある高名な教授は実名で登場し、東京大学名誉教授中村元だとしている[14]


法源誕生から3年目を迎えたある日の天声天声「今から『七勧行』を授ける。『七』とは成るである。七観行は、人間本来の生活を示したものである。」[13]

続いて七観行が伝えられたが以下のような内容であったという[13]。一、健康にあふれた楽しい毎日です。二、家族全員がゆたかで明るい毎日です。三、希望にみちあふれた繁栄一筋の毎日です。四、よろこびがいっぱいの毎日です。五、感謝にみちた幸せな毎日です。六、いつも楽しく三法行をやらせていただく毎日です。七、親切あふれた生かしあいゆるしあう毎日です。

読み終えた法源は幼稚だと感じた。分かり切った言葉しか並んでいない。しかし真理とは案外簡単なことなのだ、法源は腹の底から喜びの思いが突き上げてくるのを感じ、感謝と喜びが無限に湧くのを実感したのだという[13]。天声「人間とは何かが書かれている最高の知恵の言葉である『般若心経』は願って、求めて、頼って唱えるのではただ頭で知っただけの心のお経『心経』だが、願わず、求めず、頼らず、やることで『心行』となる。


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