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福本豊基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市生野区
生年月日 (1947-11-07) 1947年11月7日(75歳)
身長
体重169 cm
68 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1968年 ドラフト7位
初出場1969年4月12日
最終出場1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
大鉄高等学校
松下電器
阪急ブレーブス (1969 - 1988)
監督・コーチ歴
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ (1989 - 1991)
阪神タイガース (1998 - 1999)
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2002年
選出方法競技者表彰
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福本豊チャンネル
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チャンネル
福本豊チャンネル
福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年(昭和22年)11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。現役時代は阪急ブレーブスに20年間所属した。
通算盗塁数およびシーズン盗塁数の日本記録保持者(いずれもMLB記録を超えた時期がある)で、「世界の福本[1]」 「世界の盗塁王[2]」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者、野球評論家、タレントとして活動している。
現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃を持つ。通算1065盗塁とシーズン106盗塁、通算299盗塁死、通算115三塁打は全てNPB歴代1位[注 1]を記録[3]。NPB最多記録となる盗塁王を13回獲得、NPB最多記録となるダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を12回受賞している。またパ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞も受賞している[4]。俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二、山田久志、加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。 大阪市生野区腹見町で生まれる[5]。小学3年生の頃に、ゴムボールを手や角材で打つ「三角ベース野球」で初めて野球に触れる[5]。小学5年生の時、父がラーメン店、母が布団仕立て直しを開業するため、布施市(現・東大阪市)に転居[6]。転居後は出前の手伝いもした[6]。「子どもの頃から巨人ファンだった」と記している[7]。布施市立布施第三中学校(現・東大阪市立金岡中学校)時代は準硬式野球部に所属[8]。2年生まではずっと補欠で、練習で川に入ったボールを探すついでに魚を追ったりした[8]。3年生の大阪中学校優勝大会に一塁手でレギュラーとなる[9]。 「母のいとこが相撲部の監督」という事情から大鉄高等学校に進学する[10]。上級生からの制裁で1年生部員が減る中、監督が1年生を朝練習に呼び、その際のフリーバッティングでミートを評価されて「一軍」の練習に参加を認められる[11]。右翼手での守備練習で、内野ゴロのたびに「送球がそれたらボールを拾うのは自分しかいない」と一塁のベースカバーに入っていたところ監督から「野球をよう知っとるなあ」と誉められ、夏の地区予選では1年生ながら右翼手のレギュラーになる[11]。2年生の秋以降、中堅手のポジションになり、打順も1番となる[11]。 1965年の高校3年生夏に、第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす[12]。同校は夏の甲子園初出場であった。1回戦では、この大会で4強入りした秋田高校と対戦するが、延長13回裏、福本と二塁手が打球を「お見合い」してしまい、サヨナラ負けを喫した[13][12]。福本は、声を掛け合う連携を怠ったことと後退が必要な二塁手ではなく前進できる中堅手が取るべき打球だったことに気づき、「自分のミスだった」と認めて「ええ経験を積ませてもらえました」と記している[12]。 1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄・ロッテ、外野手)がいた。
経歴
プロ入り前