福本和夫
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福本 和夫人物情報
生誕
1894年7月4日
日本 鳥取県久米郡下北条村(現・東伯郡北栄町
死没 (1983-11-16) 1983年11月16日(89歳没)
国籍 日本
出身校東京帝国大学法学部
学問
研究分野経済学
科学技術史
思想史
文化史
研究機関松江高等学校(現・島根大学
ドイツフランクフルト大学社会研究所
山口高等商業学校(現・山口大学
主な業績マルクス主義
農業問題
日本ルネッサンス史の研究
主要な作品『マルクス主義の理論的研究』
『日本ルネッサンス史論』
『北斎と印象派・立体派の人々』(昭森社、1955年)
影響を受けた人物ルカーチ・ジェルジ(ハンガリーの哲学者)
カール・コルシュ(ドイツの思想家)
脚注共産党を離れてから、近世の捕鯨技術等を研究。
浮世絵フランス印象派の影響関係の研究のパイオニアとなる。
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福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の経済学者科学技術史家思想史家文化史家でもあり、福本イズムを打ち立てた。長男は福本邦雄
人物

戦前期の日本共産党第二次共産党)の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。福本は生前、自分の名前である「和夫」について、両親が「明治日本の出世頭」鳩山和夫にあやかったものと語っている。当時の筆名は、出身地にちなんで「北条一雄」としていた。
経歴

鳥取県久米郡下北条村(現・東伯郡北栄町)に福本信蔵の三男として生まれる。旧制倉吉中学校旧制第一高等学校を経て1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業。

その後、松江高等学校(現・島根大学)教授に就任。1922年(大正11年)文部省在外研究員として英独仏に2年半留学。留学先のドイツのワイマールにあるフランクフルト大学社会研究所ではハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジや、ドイツの思想家カール・コルシュの指導のもとでマルクス主義を学ぶ。

マルクス他、思想家の書いた書物について、当時のほとんどの共産党員が、翻訳本を読んで議論をしていたのに対し、東京帝国大学を卒業し、3ヶ国留学経験があったことから、原文(各国の言語・原文)で理解し、読んでいたと言われている。

1924年(大正13年)に帰国し、山口高等商業学校(現・山口大学)教授に転任。帰国直後『マルクス主義』に掲載された論文「経済学批判のうちに於けるマルクスの『資本論』の範囲を論ず」で、福田徳三河上肇高畠素之ら先行の資本論研究者を批判し、一躍注目を浴びた。

その後山口高商を辞職して上京、当時弾圧により一時解党していた日本共産党の再建を図り、1925年佐野学により結成された「共産党再建ビューロー」に参加した。さらに当時の社会主義運動のなかで大きな影響力を持っていた山川均の論文「無産階級運動の方向転換」(1922年)を、『マルクス主義』1926年2・5月号で発表した「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」で批判した。続けて発表した論文「方向転換はいかなる諸過程をとるか」「経済学批判におけるマルクス資本論の範囲を論ず」などではマルクスの唯物弁証法的方法により資本主義社会の現実の運動法則を明らかにするとともに、「分離・結合論」を展開した。

『マルクス主義』1925年2月号に「唯物史観の構成過程」を発表し、河上肇の唯物史観の研究方法を攻撃した。

福本は山川イズムを「経済運動と政治運動との相違を明確にしない「折衷主義」であり、「組合主義」である」と批判し、運動を政治闘争に発展させるためには、理論闘争によって、労働者の外部からマルクス主義意識を注入する先鋭な前衛党による理論闘争と政治闘争の必要を説いた。

『社会の構成 並に変化の過程』1926年2月12日、『唯物史観と中間派史観』1926年3月22日、『経済学批判の方法論』1926年5月27日、『理論闘争』1926年11月20日刊行、このころ福本イズムが風靡した。

1926年(大正15年)12月に五色温泉日本共産党第3回大会が極秘に開催され党の再建がなる(第二次共産党)と入党し、常任委員・党政治部長に就任、理論的指導者として大きな役割を果たした。

「過程を過程する」など、抽象的かつ難解なレトリックにいろどられた福本の一種独特な文章はたちまちのうちに学生・知識人の人気を集め、その理論は「福本イズム」と呼ばれ共産党員や党周辺の活動家の間で圧倒的影響力を持った。


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