福昌寺_(鹿児島市)
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福昌寺
三国名勝図会巻之五掲載の福昌寺の絵図
所在地薩摩国鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現・鹿児島県鹿児島市池之上町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度36分40.96秒 東経130度33分40.94秒 / 北緯31.6113778度 東経130.5613722度 / 31.6113778; 130.5613722座標: 北緯31度36分40.96秒 東経130度33分40.94秒 / 北緯31.6113778度 東経130.5613722度 / 31.6113778; 130.5613722
山号玉龍山
宗派曹洞宗
寺格大寺
開山応永元年(1394年
開基石屋真梁
文化財鹿児島島津家墓所(国指定史跡)
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福昌寺(ふくしょうじ)は、薩摩国鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島県鹿児島市池之上町)に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩島津氏菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった[1]。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。
沿革

応永元年(1394年)、島津一族出身の僧で先に妙円寺を建てた石屋真梁が、島津氏第7代当主・島津元久により開山として招かれ建立[1]。元久の1人息子である梅寿[注釈 1]が福昌寺3世住職となったが、そのため元久には後継者がいなくなり、元久の弟・久豊と元久の甥・伊集院煕久の間に家督相統の争いが起こった。その後、代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となる。忍室文勝が福昌寺15代住職だった天文15年(1546年)には、後奈良天皇勅願所となった[1][2]

江戸時代に書かれた『三国名勝図会』には、大伽藍を備えた南九州屈指の大寺院であり、最盛期には1500人の僧侶がいたと記されている。同書には、福昌寺十二景と呼ばれるものもあったことが絵と共に記されており、現在は「鏡石巌」や「菅神廟」が現存している。現在は薩藩政要録と呼ばれている「要用集」には、江戸時代には寺領が1361石あり、薩摩藩内で一番の石高を誇っていたことが記されている。大分県耶馬渓羅漢寺山口市瑠璃光寺をはじめ、北部九州四国中国地方北陸地方にも末寺があり、末寺の数は2000寺あったとも3000寺あったとも伝えられている。薩摩国大隅国日向国禅宗寺院を管轄する僧録所として人事を司り、薩摩藩の学問所としての重要な役割も果たしており、島津氏から代々、心から敬われ尊ばれてきた[2]。住職の中には、若い時の西郷隆盛大久保利通を指導した第67代住職・円了無参もおり[2][注釈 2]、鹿児島市城山にある『座禅石公園』には、円了の下で西郷や大久保らが座禅を組んだという座禅石[注釈 3]や、座禅石について東郷平八郎が書いた石碑も残されている。

明治廃仏毀釈により薩摩国、大隅国など旧・薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていた。しかし、島津忠義の妻・?姫こと島津?子[注釈 4]が明治2年(1869年)に亡くなり、葬儀を神式で行うことになった際に、福昌寺も破壊されることが決定した。この時に、歴代藩主が奉納した寺宝の多くが、破壊されたり行方不明となったりしたままで、鹿児島県文化財過疎県である一因になっている。
キリスト教と福昌寺

天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。忍室は、しばしば当寺を訪れたザビエルと宗教問答を行うなどかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している[2]

浦上四番崩れの際には、弾圧により捕らえられ改宗させる目的で他藩に預けられたキリシタン約4000人のうち、375人が『平穏丸』に乗せられ明治2年(1869年)末に薩摩藩へ預けられ、廃寺となった福昌寺に収容された[3][4][注釈 5]。他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、鹿児島ではキリシタンを丁寧に迎え入れており、「改宗すれば長崎に帰す」と藩の役人が改宗工作を行ない、鹿児島城下の民家に宿まらせたりして改宗は迫ったものの、福昌寺に帰されての自炊生活が許されており、最初の改宗工作期間を過ぎると出稼ぎが許可され、「キリシタンぞうり」と評判になった草履作りや、希望者は尾畔(おぐろ)[注釈 6]にあった『島津牧場』での乳しぼりや、薬の竜胆丸作りで生計を立てるなど、ここの待遇はかなり良く、鹿児島の住民からは好意を以て持て成された[6][7]

明治5年には、近代日本を掲げたにもかかわらず、キリシタンを禁止して捕え囚人扱いすることに対し、外国使臣団が明治政府に不当だと強硬に訴えたことで解放され、3月14日には約3年間の滞在中に生まれた13人も含めた330人が『鹿児島丸』で長崎に帰ることができたが、滞在中に病死した58人は福昌寺跡の山手にある『キリシタン墓地』に葬られた[4][6]。後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのは、この浦上のキリシタンであった。
廃寺後廃寺後に残存している鹿児島島津家墓所(国指定史跡)

現在は歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている。跡地には昭和26年(1951年)に鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校[注釈 7]が建てられた[2]。学校の背後には、6代・島津師久島津氏久[注釈 8]から28代・島津斉彬までの島津氏歴代当主と[注釈 9]その家族の墓や石灯籠、亀趺碑が並び、区画を分けた部分には、長寿院盛淳調所広郷などの墓も当時のまま残されている[注釈 10]


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