この項目では、陸奥国(現在の福島県福島市)にある福島城について説明しています。その他の用法については「福島城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
logo福島城
(福島県)
福島城址(現在は福島県庁)
別名大仏城、杉妻城、杉目城
城郭構造平城
天守構造なし
築城主伊達氏?
築城年不明
主な城主伊達氏、木村氏、本庄氏、本多氏、堀田氏、板倉氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構堀、土塁
指定文化財未指定
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度45分02.5秒 東経140度28分05.5秒 / 北緯37.750694度 東経140.468194度 / 37.750694; 140.468194
福島城(ふくしまじょう)は、福島県福島市(陸奥国信夫郡)にあった日本の城。福島藩の藩庁がおかれた。現在、福島県庁が立地している一帯が城跡である。平城ではあるが、城の東方と南方は阿武隈川や荒川が流れており、天然の要害として外堀の役割を果たしていた。 現在の福島城跡一帯には福島県庁をはじめ公共機関や民間ビルが立ち並んでおり、庭園跡である紅葉山公園や県庁南に残存している土塁、外堀跡の一部が存在する。福島城(および杉妻城、大仏城)の築城された年は不明であるが、少なくとも古墳時代には既に福島エリアの中枢的建造物が存在したことが確認されている。 現在の住居表示では、杉妻町全域、舟場町の各大半。荒町、中町、大町、上町の各一部が該当する。 既に古墳時代からこの土地にある程度の規模を有した建造物が存在したことが、2014年の福島県庁北庁舎建設および大原綜合病院建て替えのため発掘調査が行われた際に判明した。 1413年(応永20年)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝と共に鎌倉公方へ反乱を起こした際に立て籠もった大仏城が後の福島城といわれる。大仏城は後に杉妻城(または杉目城)と改められ、天文の乱後は伊達氏家臣の牧野相模守の所領になっている。後、伊達晴宗が嫡子・輝宗に家督を譲って隠居した際に米沢城から杉目城へ移った。このころの信夫郡(現在の福島市一帯)の中心的城郭は晴宗の弟・伊達実元の居城・大森城であり、杉目城は単に晴宗の隠居城としての性格しか持ち合わせていなかった。その後、1577年(天正5年)に晴宗が死去すると、晴宗夫人・裁松院(久保姫)と晴宗末子・直宗が居住した(直宗は天正12年に死去)。1591年(天正19年)の奥州仕置で信夫郡が蒲生氏郷領になると、裁松院は杉妻城を出て、孫の政宗に従って岩手沢(築城の後に岩出山に改名)へ去った。 蒲生時代に杉妻城に入ったのは木村吉清である。木村氏は葛西大崎一揆により旧領を没収され、氏郷の客将となっていた。吉清は当初大森城へ入ったが、1592年(文禄元年)頃に杉妻城を「福島城」と改称し、大森城から居城を遷した。吉清は信夫郡5万石を与えられており、福島城が信夫郡の中心的城郭になったのである。 慶長3年(1598年)、蒲生秀行が宇都宮に移され、福島城を含む信夫郡も会津120万石・上杉景勝の領地となる。当初は水原親憲が福島城の城代を務めていたが、旧領である信達(しんたつ)両郡の奪還を望む伊達氏との緊張が高まる時期には、福島城主として本庄繁長が派遣され、それと入れ替わる形で水原親憲は猪苗代城へと移された。その後、1600年(慶長5年)に伊達政宗が信夫郡に侵攻した際に、福島城の北辺一帯(現在の福島市街地)は戦場になっている(松川の戦い)。 関ヶ原の戦いで敗れた上杉氏の米沢30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城の城代を務め、繁長の後は充長、重長と続く。その後、信夫郡代官となった芋川正親は再び大森城を拠点とした。福島・大森城(及び伊達郡の梁川城)の下には、奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏が置かれ[1]、上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した[2]。
概要
前史(江戸幕府以前)
古代
伊達氏の時代
蒲生氏の時代と「福島城」の誕生
沿革
上杉氏の時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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