福岡県立育徳館高等学校
[Wikipedia|▼Menu]

福岡県立育徳館中学校・高等学校
過去の名称福岡県立豊津高等学校
国公私立の別
公立学校
設置者 福岡県
併合学校福岡県立豊津高等学校
福岡県立豊津女子高等学校
校訓文武両道・質実剛健
設立年月日1758年
共学・別学男女共学
中高一貫教育併設型
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期3学期制
高校コード40105G
所在地〒824-0121
福岡県京都郡みやこ町豊津973
北緯33度40分17秒 東経130度58分33秒 / 北緯33.67139度 東経130.97583度 / 33.67139; 130.97583座標: 北緯33度40分17秒 東経130度58分33秒 / 北緯33.67139度 東経130.97583度 / 33.67139; 130.97583
外部リンク ⇒福岡県立育徳館中学校
福岡県立育徳館高等学校
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

福岡県立育徳館中学校・高等学校(ふくおかけんりつ いくとくかんちゅうがっこう・こうとうがっこう, 英語: FukuokaPrefectural Ikutokukan Junior and Senior High School)は、福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立中学校高等学校目次

1 概要

2 沿革

3 施設

4 名物

5 学校行事

6 部活動

7 交通アクセス

8 著名な出身者

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

概要
歴史
小倉藩藩校の流れをくむ「豊津中学校」(旧制中学校)と「豊津高等女学校」を前身としている。藩校開設の1758年宝暦8年)を創立年、中学校設置の1871年(明治4年)を開校年としている。2009年平成21年)に創立250周年を迎えた。
校訓(校風)
「文武両道」「質実剛健」 を教育の柱としている。
校章
藩校思永斎を開校した小倉藩にちなみ、家紋の三階菱を3つ組み合わせたものを背景に、校名の「育徳」の文字(縦書き)を中央に置いている。
校歌
作詞は、小宮豊隆[1]、作曲は信時潔によるもの。歌詞は4番まである。
同窓会
「錦陵会」(きんりょうかい)と称する。東京に支部を置く。
沿革
藩校時代

前述の通り、同校の起源は小倉藩の藩校「思永斎」にまでさかのぼる。思永斎は1758年宝暦8年)5月1日小倉藩小笠原忠総の命により藩儒で朱子学者の石川麟洲宅で開校した[2]。その後1788年天明9年)1月22日に思永斎は小倉城三の丸に移転され、武芸稽古場が併設されて「思永館」と改称された[2]。学頭には麟洲の二男である彦岳(げんがく)が就任した[2]

小倉藩が豊津に移ったのは長州戦争の影響である。幕末のこと、禁門の変をきっかけに朝廷と幕府は長州追討令を発し、幕府軍と長州は一触即発の状態となったが、変の首謀者の処分、尊王攘夷派公家の九州移転などが行われたことで一旦戦闘は回避された[3](第一次長州戦争)。しかし高杉晋作ら尊王攘夷派が藩に戻ると再び長州は幕府に対して対決姿勢を見せるようになり、幕府は小倉と広島に兵を集結させた上で交渉にあたったが、交渉は決裂。1866年(慶応2年)6月7日に遂に戦闘が開始された(第二次長州戦争)。

この戦争で小倉は激戦地となった。熊本藩の活躍もあって一時は長州軍を領内から追い出す事に成功するが[4]、幕府の指揮の拙さもあって諸藩はほとんど戦闘に参加せず、さらに将軍徳川家茂の死を理由に幕府軍の総督が撤退したことで戦線は総崩れとなり[4]、ついに小倉藩は後方に撤退して戦闘を継続する事を決定[4]8月1日には小倉城が焼却され、それに伴って思永館も焼失した。その後小倉藩は香春町に臨時の藩庁をおき、翌年5月1日には香春光願寺に「文武館」(香春思永館)が開設される。

終戦後の1869年明治2年))1月4日には正式に藩庁を錦原(後に豊津町(現・みやこ町))へ移して藩名も「豊津藩」と改称した。これに伴い、文武館も「育徳館」と改称された。翌年には1870年(明治3年)10月20日には育徳館分校として、大橋に洋学校を開設する。
廃藩・旧制中学時代


1871年(明治4年)7月 - 変則中学校[5]として特に英学と洋学の教授を行う。

1874年(明治7年)6月 - 育徳館を廃止し、「第三十五番中学育徳学校」に改称。

1876年(明治9年)10月29日 - 秋月の乱により、校舎が破損。破損個所を補修するため、38日間の休校措置をとる。

1879年(明治12年)9月9日 - 「福岡県立豊津中学校」と改称。

1882年(明治15年)8月23日 - 香春・小倉の二分校はそれぞれ独立し、香春中学校、小倉中学校(現・福岡県立小倉高等学校)と改称。

1887年(明治20年)

3月31日 - 勅令第15号中学校令改正により、豊津中学校は廃校。授業は継続。

5月5日 - 「福岡県立豊津尋常中学校」として再建。


1901年(明治34年)5月4日 - 「福岡県立豊津中学校」と改称。

1925年大正14年)4月1日 - 「福岡県豊津中学校」と改称。

1930年昭和5年)5月18日 - 武道場「思永館」が完成。

1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、「福岡県立豊津高等学校」(男子校)となる。

高等女学校時代


1912年(明治45年)4月 - 「京都郡立豊津実業女学校」が開校。

1923年(大正12年)4月 - 「福岡県立京都実業女学校」と改称。

1939年(昭和14年)4月1日 - 「福岡県立豊津高等女学校」と改称。

1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、「福岡県立豊津女子高等学校」となる。

新制高等学校


1949年(昭和24年)8月31日 - 豊津高等学校(男子校)と豊津女子高等学校を統合して、「福岡県立豊津高等学校」(男女共学)となる。

1987年(昭和62年)3月28日 - 講堂兼体育館が完成。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef