福岡県立明善高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度19分18秒 東経130度30分18秒 / 北緯33.32167度 東経130.50500度 / 33.32167; 130.50500
福岡県立明善高等学校(ふくおかけんりつめいぜんこうとうがっこう, 英語: Fukuoka Prefectural Meizen High School)は、福岡県久留米市城南町にある公立高等学校。スーパーサイエンスハイスクール(SSH)およびふくおかスーパーハイスクール登録校。 久留米藩藩校の流れを汲む中学明善校(旧制中学校)及び久留米高等女学校(高等女学校)を前身とする。1879年(明治12年)を創立年としており、2009年(平成21年)に創立130周年を迎えた。校名の「明善」の由来に関しては、明善同窓会ウェブサイト[1]を参照。 全日制課程 普通科(一般コース・普通科総合文科コース[2])・理数科および定時制課程 普通科。全日制の定員は1学年7学級280名(2019年度入学者から)。生徒の多くは国公立大学へと進学する。 「克己[3]・盡力[4]・楽天[5]」。1907年(明治40年)に制定[6]。 旧久留米藩(有馬家)の紋章である「笹竜胆[7]」(ささりんどう)を背景に、中央に校名の「明」を置いている。 校歌の作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔による。1956年(昭和31年)に制定。3番まであり、各番に校名の「明善」が登場する。1番に「盡力」、2番に「克己」、3番に「楽天」といったように、歌詞に校訓が登場する。校歌とは別に応援歌「白旆[9]の歌」がある。また定時制課程には逍遥歌がある。 「明善同窓会」と称する。毎年10月に総会を開催している。関東、近畿、東海、福岡に支部を置く。 久留米大学の協力のもと、2005年(平成17年)の一ヵ月半の間試験的に導入され、生徒にも好評であったことから、現在では正式に導入されている(全国初)。昼休みが45分間あるうちの終盤10分間に「午睡タイム」が設けられ、校内放送で開始と終了のアナウンスをし、午睡デーの午睡時間中は教室の明かりが消される。
概要
歴史
学区
普通科(一般コース)は、第八学区(三井郡、小郡市、久留米市のうち城南・江南・櫛原・牟田山・諏訪・良山・明星・宮ノ陣・荒木・筑邦西・屏水・青陵・高牟礼・北野中学校の校区)および久留米市の田主丸・城島中学校の校区。
理数科は、筑後地区全域(第七?十学区)
普通科総合文化コースは、福岡県全域。
設置課程・学科・特色
校訓
校章・校旗
校歌・応援歌[8]
同窓会
午睡の導入
沿革
久留米藩藩校時代
1783年(天明3年)2月6日 - 高山畏斎
1796年(寛政8年)12月9日 - 「明善堂(めいせんどう)」と改称。
1872年(明治5年)11月2日 - 学制の施行により、「明善小学」と改称。
1875年(明治8年)8月22日 - 「小学校教師伝習学校」と改称。
1876年(明治9年)6月21日 - 「久留米師範学校」と改称。
1879年(明治12年)6月25日 - 久留米師範学校を廃止。
旧制中学明善校
1879年(明治12年)
9月9日 - 「福岡県立久留米中学校(旧制)」を設置。初代校長に梅野多喜蔵(1841-1928) [10]。梅野は大鳥圭介の私塾で蘭学を学んだのち、雄飛丸の乗方修行の藩命を受けて神戸海軍操練所、勝海舟の氷川塾、開成所で学び、雄飛丸の専任士官、千歳丸 (久留米藩)艦長を務めた人物[11]。
10月1日 - 「福岡県立久留米中学校」が開校。
1880年(明治13年)6月26日 - 上妻郡に山内分校、竹野郡に田主丸分校を設置。
1887年(明治20年)
3月31日 - 福岡県立久留米中学校を廃止。
4月 - 「仮設久留米尋常中学校」と呼称。
1888年(明治21年)6月1日 - 「私立久留米尋常中学校」と改称。
1889年(明治22年)3月29日 - 「福岡県立久留米尋常中学明善校」と改称。
1894年(明治27年)2月7日 - 教室および寄宿舎が完成。
1895年(明治28年)11月15日 - 校旗・校章を制定。
1899年(明治32年)5月5日 - 「福岡県立中学明善校」と改称。
1902年(明治35年)9月1日 - 新校舎に移転。
1907年(明治40年)6月15日 - 校訓「克己・盡力・楽天」を制定[6]。
1911年(明治44年)2月11日 - 校歌[8]を制定。作詞は金沢来蔵(第4代校長)、作曲は新清太郎(久高女教諭)による。
1923年(大正12年)3月31日 - 寄宿舎を廃止。