福岡県立修猷館高等学校
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福岡県立修猷館高等学校
校舎南門側
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 / 33.58389; 130.35667座標: 北緯33度35分02秒 東経130度21分24秒 / 北緯33.58389度 東経130.35667度 / 33.58389; 130.35667
過去の名称東学問稽古所修猷館
福岡県立英語専修修猷館
福岡県立尋常中学修猷館
福岡県中学修猷館
福岡県立中学修猷館
福岡県立高等学校修猷館
国公私立の別公立学校
設置者 福岡県
学区福岡県第6学区[1](旧第7学区)
設立年月日東学問稽古所修猷館
1784年2月6日
福岡県立英語専修修猷館
1885年5月30日
創立記念日5月30日
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期2学期制
学校コードD140213000164
高校コード40142A
所在地814-8510
福岡県福岡市早良区西新六丁目1番10号
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、: Fukuoka Prefectural Shuyukan High School)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目にある公立高等学校。略称は「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。1784年天明4年)開館の福岡藩藩校甘棠館(西学問稽古所)、同修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ伝統校[2]
概要
組織

かつては定時制通信制も存在した[3]が、現在は全日制普通科のみ。募集定員は11クラス440名。教室設備の都合上、3年に一度は定員を10クラス400名とし、全校で32クラス計1280名の生徒が通う[4]

2年次から文系・理系のクラスに分かれる[4]。文系・理系普通クラスのほかに、文系・理系英数クラス(通称英数)、医学部進学クラス(通称医進)が設置されている。文系英数クラスには東大京大一橋大を、理系英数クラスには東大・京大を志望する生徒が在籍する。

かつては補習科浪人生を対象として普通科の高等学校に設置された学科)を前身とする予備校「修猷学館」が存在し、他校卒生も入学することができた。学校の裏手にある西南学院大学に隣接し、教員や模試も高校と共通であったため、「修猷は四年制高校」とも揶揄された。九大をはじめとする国立大学医学部へと卒業生を多数輩出したが、1995年に閉校となり、跡地は西南学院大学により図書館の敷地の一部として買収された。
校名「脩猷館」の扁額東門の門柱に刻まれた「修猷館」の文字

修猷館の名は『尚書』「微子之命」の章句「踐脩厥猷(せんしゅうけつゆう)」から取られた[5]。「微子之命」はの黄金時代を築いたとされる成王(在位 紀元前1042年-1021年)がの王族である微子啓に殷王室の後継者となることを命じた文章である。「踐脩厥猷」は「厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む」と書き下し、「成湯の偉大な道を実践し修める」ということを意味する[6]。典拠となった一篇は以下の通り。嗚呼 乃祖成湯 克斉聖広淵 皇天眷佑 誕受厥命 撫民以寛 除其邪虐 功加于時 徳垂後裔 爾惟踐脩厥猷 旧有令聞 ? 『尚書』微子之命書き下し文:嗚呼、乃(なんぢ)の祖成湯、克(よ)く斉聖広淵(せいせいこうえん)なり。皇天眷佑(こうてんけんゆう)し、誕(おおい)に厥の命を受く。民を撫するに寛を以てし、其の邪虐を除く。功時に加はり、徳後裔(こうえい)に垂る。爾(なんぢ) 惟(こ)れ厥の猷を踐み脩め、旧(ひさ)しく令聞あり。現代語訳:ああ、汝の祖である成湯は慎み深く賢明で度量は広く物事に通じていた。そこで大いなる天はそれを助け、(成湯は)天命を受けた。民を寛大な政治によって治め、(桀の)悪虐を除いた。功業は当時を潤し、徳は後世の子孫にまで及んだ。汝はその成湯の偉大な道を実践し修めており、久しく立派な評判がある。

藩校が廃藩置県で閉鎖された後、県立中学として再興されようとした際に、文部大臣から「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧藩士はこれに猛反発し[7]、旧福岡藩主黒田長溥が「学校経費は全て黒田家が出すから館名を残せ」と決意したことにより館名は守られた[8]。実際に学校の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れて完全に県費負担となるのは1900年のことである[8]

さらに、学制改革に伴い、県立高等学校として再編されようとした際には、GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた。

このように、藩校設立から現在に至るまで幾度となく改名の危機にさらされながらも、240年もの歴史の中で一貫して校名に「修猷館」を掲げている。

また、生徒を「館生」、校長を「館長」[9]、校歌を「館歌」[10]、校旗を「館旗」[7]と称するなど、「館」にちなんだ呼称が広く浸透している。
校風「学校生活生徒会」も参照

自由な校風で知られ、校則などを定めず、生徒に学校運営を大きく委ねる自治が認められている。学校の定めた校訓などはないものの、「質朴剛健」「不羈独立」「自由闊達」といった言葉が気風として現在まで連綿と受け継がれている[7]ほか、「世のため人のため」という言葉も大切にされている[11]。また、修猷館をもじった「Sure, you can!」という言葉もよく用いられる。
徽章六光星

六芒星の形をした徽章は「六光星(ろっこうせい)」と呼ばれている。1894年明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」をもとに制定された[6]。教室棟生徒昇降口(南棟側)の傍の柱には六光星の由来が記されている。内容は以下の通り。六光星の由来
伝統に輝く六光星の徽章は明治二十八年、日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。その由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであって、月日と輝きを同じくする星の光に将来を担う若き青年の希望を託したものである。
なおこの星は、北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。
ここに全校の職員、生徒ならびに同窓生一同の拠金により、新たに徽章が鋳造されるにあたって由来を述べ、あわせて後進の諸君の健闘をうながしたいと思う。
昭和五十五年五月三十日六光星の由来を記した石板

六光星は、上下逆転させた2つの正三角形を重ねた形(等辺六芒星)が正式な形であり、各頂点の内角は60°である。


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