福岡大空襲
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 日本本土の戦い > 日本本土空襲 > 福岡大空襲戦災記念碑

福岡大空襲(ふくおかだいくうしゅう)は、太平洋戦争大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)6月19日から翌日の6月20日までアメリカ軍により行われた空襲福岡県福岡市市街地を標的にした。これにより1,000人以上が行方不明・死亡となった。
概要

米軍の戦略爆撃の一環として計画。マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。福岡市には高射第4師団博多区隊が駐屯(本部:東平尾)し、高射砲6門で編成された中隊が市内各地に配置され、さらに独立照空第21大隊(本部:筑紫郡春日村、現春日市)が4ヵ所に配置されていた[1]。さらに、中央区輝国糸島郡高祖山にも高射砲陣地があったという証言がある[2]。敵機襲来と同時に高射砲陣地が応戦するも、友軍機の迎撃は一切無く、また九州兵器(現・渡辺鉄工所本社工場)や博多港など市の北部と東部に防空機能を位置づけていた上、南九州の防空のために一部の高射砲部隊が転戦しており、さらに肝心の高射砲が射高が低く命中しなかった[2]ため、福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊には効果なく、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。

博多天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼する[2]など、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。そのような中において、1931年(昭和6年)に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた[2]

避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた[2]。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。

上述地域のほか、薬院当仁・新柳町(現在の清川)・平尾六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災。七隈の九州経済専門学校(現在の福岡大学)は学生が勤労動員で休校状態だったが、図書館を焼夷弾が直撃、蔵書約3,000冊もろとも灰燼に帰した[3]。そのため、九州経専は戦後の新制大学昇格の条件に図書館蔵書1万冊があったため、蔵書の確保に学生までが奔走しなければならなかった[4]。また脊振山の山裾に位置する早良郡糸島郡筑紫郡の村々も爆撃された。これは、風向きが予想と異なり、脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。このうち糸島郡雷山村(現在の糸島市雷山地区香力・蔵持)では、民家24棟や雷山国民学校(現在の糸島市立雷山小学校)、農業倉庫などが全焼し、7人が即死、1名(教師)が9時間後に死亡し、9名の死者を数えた[5]。筑紫郡安徳村(現在の那珂川市安徳)では、わずか3世帯しかない瀬戸地区が空襲され、うち1世帯の母屋と納屋が焼失した(集落東側の採石場を標的にしたと考えられている[6])。

日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなった。

空襲の翌日、西部軍司令部に収監されていた連合国捕虜が報復処刑された。同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。

戦災による人的被害のみならず各の山笠台や法被等が焼失したため、同年の博多祇園山笠は中止となった。終戦後の翌1946年5月25日には「第一回奈良屋復興祭」が開催され、ベニヤ板に太閤豊臣秀吉を描いた子供山笠が焼け野原を舁き回ったが、山笠の本格的な再開は1948年(昭和23年)までかかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef