福富邦夫
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福冨 邦夫基本情報
国籍
日本
出身地広島県広島市南区段原中町
生年月日 (1943-04-23) 1943年4月23日(81歳)
身長
体重177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1965年
初出場1965年4月11日
最終出場1980年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


広陵高等学校

神奈川大学

国鉄スワローズ
サンケイスワローズ
サンケイアトムズ
アトムズ
ヤクルトアトムズ
(1965 - 1972)

太平洋クラブライオンズ (1973 - 1974)

ヤクルトスワローズ (1975 - 1980)

監督・コーチ歴


ヤクルトスワローズ (1981 - 1993)

時報イーグルス (1995)

サンバンウル・レイダース (1996)

近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ
(1997 - 2000)

MSHアカデミー

四国学院大学

JR西日本

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

福冨 邦夫(ふくとみ くにお、1943年4月23日 - )は、広島県広島市南区段原中町出身[1]の元プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者

息子の洋祐は東洋大学で選手・コーチを務めた後、星槎学園高等部湘南校の前監督。
経歴[ソースを編集]

2歳時に原爆投下を経験。実家は爆心地から約2.2キロの距離にあったが、比治山の陰であったため難を逃れる[2]広陵高校では3年次の1961年中堅手として夏の甲子園県予選決勝に進出。西村宏高岡重樹のいた崇徳高と対戦するが0-1で惜敗、甲子園出場を逸する[3]

高校卒業後は1962年神奈川大学へ進学し、野球部では横浜五大学リーグで3度の優勝を経験。2年次の1963年には全日本大学野球選手権大会で準決勝に進出するが、慶大に敗退。在学中に記録した通算打率は.420と、攻守走三拍子揃った好選手として注目され、国鉄西垣徳雄技術担当重役が早くから交渉を開始。3年次の1964年6月には全日本大学野球選手権大会の直前にプロ入りが噂され、福富は自発的に出場を辞退。3年春にベストナイン受賞。

1965年に大学を中退し、国鉄スワローズへ入団。1年目の同年から右翼手、中堅手として54試合に先発出場したほか、大塚徹と共にジュニアオールスターゲーム出場[4]も果たした。

1968年には初めて規定打席に到達し、リーグ7位の打率.292で初のベストテン入りを果たす。強肩でも知られ、同年は14補殺を記録した。レギュラーに定着したきっかけは一つの試合であり、負けている展開で守りから出場して打席が回った[5]。左対左で本来なら代打の場面であったが、ベンチに交代要員がいなかった[5]。その打席で右翼線に二塁打を放つと、翌日は先発で2安打を打ち、福富は後に「本当に運が良かった。」と振り返っている[5]

1969年はリーグ10位の打率.281で2年連続ベストテン入りを記録し、武上四郎と一・二番コンビを組んでデーブ・ロバーツ以下の主力につなぐ役割を期待されたが、チームの打線が安定せず、福富や武上が中軸を任されるケースも多くあるなどなかなか機能しなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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