福地泡介
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。

福地 泡介
本名福地 豊
生誕1937年6月1日
岐阜県関市
死没 (1995-01-05) 1995年1月5日(57歳没)
東京都
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1962年 - 1994年
ジャンル4コマ漫画、ナンセンス漫画
代表作『ブロー君』
OH!!ミスター
『ドーモ君』
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福地 泡介(ふくち ほうすけ、1937年6月1日 - 1995年1月5日[1][2])は、日本漫画家随筆家アマチュア雀士放送タレント。福地 泡介(つくりの包の己の部分が巳)の表記も用いた[3]。本名、福地 豊[1]
略歴

岐阜県関市生まれ。生家は刃物製造会社を経営し、志津三郎兼氏の末裔とされる[3]岐阜県立関高等学校在学中から新聞や雑誌へ漫画の投稿を行い、プロを志して荻原賢次に弟子入りを志願するが断られ、京都で予備校に通いながら浪人生活を送り、早稲田大学法学部に入学[3]早稲田大学漫画研究会に入部。2年上級にしとうきねお園山俊二が、1年上級に同い年の東海林さだおがいた(2年生での入部で、福地と同期入部)。1959年、福地・東海林ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、ほとんど採用されずにグループは数か月で解散に追い込まれた[4]

在学中に商事会社に就職し、早大を中退[3]。サラリーマン生活をしながら漫画の持ち込み活動を続け、東京スポーツや雑誌『美しい十代』『週刊漫画サンデー』『週刊漫画TIMES』などに作品を描く。1962年にプロ漫画家として独立[1][2]。1966年4月、園山とともに「漫画集団」に入団(同期入団に多田ヒロシ水野良太郎ら)[5]

1966年より『漫画サンデー』に連載した『ドボン氏』[3]で注目され、人気を得るかたわら、趣味の麻雀の腕を磨き、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1975年、雑誌『週刊大衆』主催の麻雀名人戦で古川凱章5代目三遊亭圓楽らを相手に第6期名人になり[要出典]、さらに翌年、名人位を防衛し、初の2期連続名人となった。このことで雀士として著名になり、麻雀の攻略法に関連する書籍を複数上梓したほか、麻雀に関するテレビ番組の出演をきっかけに、テレビタレントとしても活動した[3]

1995年1月、肺炎のため57歳で急逝。1985年から日本経済新聞で連載中だった『ドーモ君』はそのまま終了となった。日本経済新聞では『ドーモ君』終了以降、社会面に4コマ漫画を設けていない。
作風

一見投げやりなように描かれた人物造形、空白を多く残した構成、展開を放棄したストーリーによって、
ニヒリズムを感じさせる「現実感のない、まったく乾いた世界[3]」を表現し、「キラリと光る現代の虚無[6]」と評された。

「庶民の生活を哀愁あふれる視点で描き、共感を得た」とも評される[2]

漫画サンデー』初代編集長の峯島正行は、経歴の近い園山・東海林・福地の作風を比較し、「思索型」の園山・「観察型」の東海林に対して、福地を「精神不在をよそおう(略)無意味な行動の面白さ」を「興味の赴くまま」に描く「行動型」と評し、3人の中で「一番ナンセンスの真髄に近い」とした[3]

人物・エピソード

麻雀を通じて
近藤啓太郎吉行淳之介五味康祐五木寛之らの小説家や、ジャーナリストらと交流し、マルチタレントとしての足がかりとなる人脈を広げた[3]

早い時期からコンピュータグラフィックスに着目し、パソコンのスキルを習得して作品を作っていた[3]

早大漫研の同志であった東海林さだおとは生涯の親友であり、草野球仲間でもあった。

食事に無頓着で、自炊をしなかったという。好きな料理はラーメンで、その理由は「一杯で食事を済ませられるから」と素っ気ないものだったという。

映画ファンであり、劇場用映画2本の制作に携わった(後述)。

作品

[7]
漫画
連載


としごろ天使(美しい十代 1960年9月号 - 1961年3月号)

ちい子とのら坊(美しい十代 1961年4月号 - 1962年6月号)

ドボン氏(漫画サンデー 1966年)

週刊ホースケ
[2]

ドタコン(漫画サンデー)[3]

ドタコン(集英社キャットコミックス 1970年)

ドタコン 1(立風漫画文庫 1976年)

ドタコン 2(立風漫画文庫 1976年)


ホースケ君[1][2]

ホースケ君(立風漫画文庫 1977年)


コンチキ社員[1][3]

パリ野郎[3]

あつかましい奴ら[1]

あつかましい奴ら 蛙のツラに小便だヨーン(ベストセラーズ 1970年)


ブロー君(中日新聞東京新聞北海道新聞西日本新聞等)

ブロー君(奇想天外文庫 1976年)


OH!!ミスター読売新聞朝刊 1979年)

マージャン鞍馬天狗(リイドコミック

マージャン鞍馬天狗(立風書房 1981年)


マンガショートショート(月刊ギャグダ

ドーモ君(日本経済新聞 1985年 -1995年)[1][2]


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