福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、大江姓安芸福原氏の人物。同姓同名の一族が多いため下記に記す。 福原氏は同じ名前を名乗った者が多いため、以下にまとめる。福原広世 ┃福原朝広 ┃福原広俊 (8代当主) ┃福原貞俊(9代当主) ┃福原広俊 (10代当主) ┃福原貞俊(11代当主) ┃福原元俊(12代当主) ┃福原広俊 (13代当主) ┃福原元俊 (14代当主) ┃福原広俊 (15代当主) 尚、同名に関しては「福原広俊」のみならず、系図を見ての通り、「福原貞俊」や「福原元俊」と名乗った人物も複数名(2名ずつ)おり、やはり祖先に肖るか、毛利氏からの偏諱の授与によるかのいずれかによって生じたものである。 凡例福原広俊 (8代当主)
系図
「広」の字は安芸福原氏の祖先にあたる大江広元に由来する字であり、まずは広世・朝広・広俊(8代当主)の3代に亘り代々使用されたが、広俊(8代当主)をきっかけとして以降しばらくは「俊」の字が代々通字として用いられるようになった。その孫である広俊(10代当主)は祖父に肖ったか、もしくは従兄弟にあたる毛利興元・元就兄弟のいずれかから広元由来の「広」の字を賜ったかによってその名を称した。その曾孫にあたる広俊(13代当主)は毛利輝元期の人物であり、名乗りの理由も同様と考えられる(特に広俊(10代当主 / 13代当主)の代には福原氏以外にも「広」の字を与えられた家臣が多く見られる)。そして、輝元の1字を受けた13代の子の元俊 (14代当主)の代からは長州藩主の毛利氏から偏諱を受ける慣習が生まれ、その子の広俊(15代当主)は毛利綱広(輝元の孫)の代に「広」の1字を受けたため同名を名乗ることとなった。
福原広俊 (8代当主)
時代室町時代
生誕不詳
死没永享3年5月6日(1431年6月15日)?
または延徳3年(1491年)[1]
改名法師丸(幼名)→広俊
別名弥五郎、少輔太郎
戒名宇水大禅定門
官位式部大輔、下総守
主君毛利煕元→豊元→弘元
氏族大江姓福原氏
父母父:福原朝広
兄弟広俊、誠親
子貞俊(9代当主)、元澄
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福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、室町時代中期の武将。安芸毛利氏の一族である安芸福原氏当主。
福原朝広の子として誕生。毛利興元と毛利元就の外祖父にあたる。
安芸福原氏は、毛利元春の子・広世(広俊の祖父)が長井氏に養子に入った際、その領国の地名から福原姓を名乗ったのが始まりである。元春死後、孫の毛利光房の代になると、麻原氏
など他の毛利氏分家が本家からの独立色を強める中で、祖父・広世と父・朝広は毛利本家のため忠誠を尽くし、後の福原氏発展の基礎を築いた。広俊は光房の孫である毛利豊元に兄と呼ばれるほど信任を受け重用され、同じく毛利氏庶流の坂氏と協力し麻原氏らの勢力を弱めることに成功した。豊元が夭折した後は毛利弘元の外戚となり、毛利家における福原氏の地位を不動のものにした。弘元に嫁いだ娘は興元と元就を生んでいる。
応仁の乱では西軍の山名氏に協力し、小国郷の地頭職を与えられた。長享元年(1487年)に跡目を子の貞俊に譲っている。死亡時期は永享3年(1431年)5月6日とするものがあるが、以上の経歴と矛盾することから、干支が同じ辛亥である延徳3年(1491年)に比定されている[1]。 凡例福原広俊 (10代当主)
関連作品
毛利元就 (NHK大河ドラマ)(1997年) 演:笹野高史
福原広俊 (10代当主)
時代戦国時代
生誕不詳
死没弘治3年1月10日(1557年2月9日)
別名弥五郎(通称)
戒名楞厳寺殿玉峯宗金
墓所鈴尾城跡(広島県安芸高田市吉田町福原)
官位左近允、下総守、出羽守
主君毛利弘元→興元→幸松丸→元就
氏族大江姓福原氏
父母父:福原貞俊(9代当主)
子貞俊(11代当主)、宮庄元正
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福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、戦国時代の武将。安芸毛利氏の一族である安芸福原氏の第10代当主。
9代当主・福原貞俊の子として誕生。祖父は8代当主・広俊。毛利興元・元就兄弟の従兄弟にあたる。
毛利家の筆頭家老をつとめ、毛利元就の家督相続において、他の14人の宿老(署名順に中村元明、坂広秀、渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、井上就在、井上元盛、赤川就秀、飯田元親、井上元兼・元貞兄弟、井上元吉、桂元澄、志道広良)と共に起請文に署名した際に、筆頭として署名している。