福井静夫
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福井 静夫(ふくい しずお、1913年(大正2年)10月25日[1] - 1993年(平成5年)11月4日)は、大日本帝国海軍の技術科士官(最終階級は少佐)、艦艇研究家。

専攻は造船。三男・威夫本田技術研究所社長、本田技研工業代表取締役社長などを歴任した。
経歴
造船(技術)士官時代

東京帝国大学では造船を学び、試験に合格して海軍委託学生となる。1941年(昭和16年)には目黒区三田にあった海軍技術研究所造船研究部に所属しており、静かな環境で学際的な雰囲気の元、海軍のみならず日本の基礎工業に技研が果たした役割を高く評価している。戦時中にはシンガポールに派遣され、英軍によって破壊されたセレター軍港を接収して開設された第101工作部にて施設復旧等に従事、訪独の帰途英軍の敷設した機雷に触れて沈没した伊30の引揚げにも関わっている。その後は呉工廠造船部に移り、1945年(昭和20年)の7月に舞鶴工廠富山分工場の造船課長へと転出[2]。富山で終戦を迎えた。

士官着任以前の海軍委託生時代から艦艇に関する資料の蒐集を始めており、1945年夏に舞鶴工廠富山分工場に赴任した際には既に貨車一両ほどの量を集めていた[3]太平洋戦争終戦の頃福井自身により撮影された旧海軍艦艇の写真は整理が早く済んだのか、世に多く公開されている(但し福井が撮影した写真で現存する物の全てであるかは不明。)。福井は終戦の翌日には記録を残すために『日本海軍艦艇総集』の刊行を決意(未完。詳細は批判の項参照)していたという。
公務としての史料調査

終戦の際には公試の際に海軍が撮影した多くの公式写真や厳重に管理されていた図面が焼却されたが、福井と同じようなことを考えた海軍関係者は多く、当時の海軍大臣であった米内光政が軍令部作戦部長の富岡定俊に命じて戦史の史料部を海軍省に設けた。しかし占領軍の進駐とともにダグラス・マッカーサーの命令により日本側単独での戦史作成は中止され占領軍の戦史作成の補助という形になる。こうした方針の元海軍省も改組され第二復員省となり、戦史調査を行なうこととなった。

上層部が上記のような史料調査に動く中、福井の属していた艦政本部の部局長会議でも、完全なものにならなくてもよいから技術資料をできるだけ集積、調査、分析する調査事業を始めることを決定、臨時軍事費50万円を基金として第一段の技術関係史実調査をはじめた。ところが通貨の封鎖と新円への切り替え、海軍の解体、GHQへの資料提出などにより、当初計画通りの実行は不可能となった。

そのため数百人の担当者を指名し、主として各自の記憶を中心とする原稿を1946年(昭和21年)6月末期限で集めることとなり、大半の原稿が期限までに集まった。また、調査事業の継続を当面の目的とする組織として1946年(昭和21年)3月9日生産技術協会を商工省の認可法人として発足させる(なお、生産技術協会は旧海軍関係者の高齢化により、1970年代には造機部の首魁であった渋谷隆太郎の手で解散に至ったらしく、造船を含む相当数の史料が行方不明となった)。

しかし第二復員省は1946年(昭和21年)6月15日復員庁第二復員局に縮小され、1947年(昭和22年)1月には厚生省第二復員局残務処理部となる。更なる規模縮小で今度は公官庁の外へ出されることになり、史料調査会が文部省の財団法人という形で1947年(昭和22年)3月に設立された。戸高によれば史料の蒐集ははかどったものの、予算の裏づけが無いため死蔵状態の物が多かったのだという。史料調査会は1978年(昭和53年)、海軍文庫を開設する。

こうした中福井は第二復員省(著書では第二復員局)の造修課および資材課で艦船造修と艦政本部残務(技術資料作成)に従事し、その後当時旧海軍の組織を唯一継承していた海上保安庁で運輸技官として4年奉職し、1952年(昭和27年) 退官し、史料調査会に関わることになる。
軍艦研究の泰斗として

退官後の1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて、7本の報告が牧野茂・福井静夫編『海軍造船技術概要』として纏められる(後に今日の話題社から刊行)。その後は『』『世界の艦船』を中心に数多くの旧海軍関連記事を発表しており、一般人が触れることのできる当事者の技術史料としては質量共にトップクラスとなる。

また、目黒海軍大学校跡地にあった史料調査会で旧海軍関係の史料整理、欧米艦艇技術の調査を行なっており、理事も務めた。1970年代頃には戸高一成を部下とする。福井は戸高が大学生の頃よりアドバイスをしており「軍艦に詳しい人はたくさんいるけど、同時に史料管理の勉強をした人は戸高さんしかいない」と評価していたという(戸高は司書の資格も持っている)。技術者としての視点を前面に出し、1960年代に入った頃から旧海軍、特に大和型戦艦が何度も採り上げられるようになった際にも、「小さく纏め上げた事を誇りたい」と書いたり、後の1990年代末に前間孝則が詳しく採り上げることになる西島亮二を引き合いに出しながら工数管理で成功したことを評価するなど技術者として冷静に見ており、市井のファンに対しても冷ややかな評価が散見された。

また、艦艇への愛着から写真を積極的に収集していた海軍士官は他にもおり、福井は永村清(造船)、甘利義之(造機)などのコレクションを引き継いでいる。その後、高齢となるにつれ体が動かなくなり、戸高等に整理を依頼、福井の収蔵史料は史料調査会に搬入された。ダンボール箱で400?500箱にも達し日本に唯一しかない史料も多くあったという。この膨大な史料のアウトラインの目録を作成しているうちに福井は逝去する。史料は史料調査会が譲り受ける予定であったが、死後遺族の手により呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の開設計画が持ち上がり、その準備室に譲渡(売却ともいわれる)された。後に館長を務めることになる戸高は引き続き関わった。
略歴

横浜に生まれる。1938年(昭和13年) - 東京帝国大学工学部船舶工学科卒、海軍造船中尉。

1940年(昭和15年)11月15日 - 海軍造船大尉。

1941年(昭和16年)4月 - 連合艦隊司令部附。

1941年(昭和16年)8月 - 海軍技術研究所所員。

1942年(昭和17年)2月 - 第101工作部部員。

1942年(昭和17年)11月1日 - 海軍技術大尉。

1943年(昭和18年)4月 - 呉海軍工廠造船部。

1944年(昭和19年)10月15日 - 海軍技術少佐。

1945年(昭和20年)5月 - 艦政本部造船監督官。

1945年(昭和20年)9月 - 予備役。

1948年(昭和23年) - 運輸技官として海上保安庁勤務。

1952年(昭和27年) - 退官。

1993年(平成5年)11月4日 - 没。

批判
非公開の続く一次史料と関係者間のトラブル

上記のように、福井は膨大な旧海軍関連の資料を蒐集していることで有名であった。1958年(昭和33年)の段階で既に1万枚の写真を保有していると書いており、2005年(平成17年)に相次いで出版された『呉市海事歴史科学館図録 福井静夫コレクション傑作選』には2万枚と書かれている。しかし、福井(および『世界の艦船』常連執筆者であった堀元美)は具体的な文書や写真を提示せず、回顧録的な記事の発表を続けたため、一部読者や研究家の間で旧海軍の技術関係者に対する不満が高まり、1970年代半ばから数年間、主に雑誌『世界の艦船』の読者投稿欄(読者交歓室)を舞台に論争が発生した。田村敏夫が『世界の艦船』第272集(1979年8月特大号)で公開した「大淀」の写真。田村は、この写真を公開するにあたり史料が非公開のまま個人が研究する事への疑問を述べ、個人が所蔵する史料の公開が進んでいない現状を批判した[4]


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