福井城
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この項目では、福井藩の福井城について説明しています。大阪府茨木市の福井城については「福井城 (摂津国)」をご覧ください。

logo福井城
福井県
福井城 石垣、内堀
別名北ノ庄城、北庄城、庄城
城郭構造輪郭式平城
天守構造

層塔型7層(一説には9層)柴田氏北ノ庄城時代(1575年) 望楼型4重5階(1601年・非現存)
築城主柴田勝家
築城年1575年(天正3年)
主な改修者結城秀康
主な城主柴田勝家、越前松平家
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財未指定
埋蔵文化財
包蔵地番号福井県No.01141[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度3分55.64秒 東経136度13分15.24秒 / 北緯36.0654556度 東経136.2209000度 / 36.0654556; 136.2209000座標: 北緯36度3分55.64秒 東経136度13分15.24秒 / 北緯36.0654556度 東経136.2209000度 / 36.0654556; 136.2209000
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福井城(ふくいじょう)は、現在の福井県福井市大手にあたる越前国足羽郡北ノ庄(改め福居)のち福井[2]にあった本丸の石垣と堀が残るが、二の丸三の丸はほぼ消滅して市街地化している。形式は平城本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる[3]江戸時代には福井藩越前松平家の居城、城下町として栄える。現在、本丸跡地には福井県庁福井県議会福井県警察本部が庁舎を構えている。なお、本項目では福井城が築城される以前に同地に存在した北ノ庄城についても合わせて記す。
概要

前身となる北ノ庄城(北庄城、庄城とも)の築城年代は不明だが、南北朝時代には現在の福井市北庄・木田・板垣町付近に城郭が存在したようで、『日本城郭大系』11巻(1980年)は、福井藩松平吉邦の命で享保5年(1720年)に編纂された『越前国古城跡并館屋敷蹟』(『城跡考』)の記載を引用して、これを延元3年/建武5年(1338年)に南朝方の新田義貞に対抗して北朝方の斯波高経が築いた城塞群「足羽七城」の1つに数えている[4]

その後、黒丸城に拠っていた朝倉貞景の子・朝倉頼景がこの地に館を築き、北庄朝倉家の拠点となったという[5]

織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、信長は越前支配のために、朝倉氏旧臣の前波長俊一乗谷守護代に任じた。また、明智光秀羽柴秀吉滝川一益の3名に自らの意思を伝達する役割を持たせ、北庄の朝倉景行の館に配置した[6]。簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後に信長は越前49万石を柴田勝家に与えた。

北ノ庄城には柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、その跡地に結城氏が慶長6年(1601年)に築城または改築した「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがある。現在見られる福井城の遺構は結城氏によるものである。

柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。

2017年平成29年)4月6日、「続日本100名城」(137番)に選定された。
柴田氏 北ノ庄城

柴田神社(北ノ庄城址)に展示されている北ノ庄城天守の復元模型

朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆越前一向一揆)を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、1575年(天正3年)に自らの縄張りによって築城を開始する。城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。

宣教師のルイス・フロイス1581年(天正9年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている[7]。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。

しかし1583年(天正11年)4月の北ノ庄城の戦いに勝家が敗れ、妻・と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになる(北ノ庄城の戦い)。勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正11年)4月25日毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。(ただし九重には「何段にも重なる」という意味もある)
丹羽氏 堀氏時代

柴田氏が滅ぼされたのち戦功により若狭領主の丹羽長秀が越前を加増され城主となった。その後堀秀政の領地となったが堀氏は間もなく越後に転封された。
青木氏(豊臣家の親族)時代

その後、1599年(慶長4年)に秀吉の親族である青木一矩が北ノ庄城21万石に封じられたという記録が残っている。
結城氏 北ノ庄城(福井城)福井城(北庄城)本丸復元図上屋、釣瓶整備後の福の井。なお福井市は、これに北ノ庄の「北」をかけあわせデザインしたものを1925年に市章と制定している。福井城の石垣天守台瓦御門 本丸の正門巽櫓 本丸の南東隅松平試農場

1600年(慶長5年)に家康の次男である結城秀康関ヶ原の戦いの戦功第一位ということで68万石で北ノ庄を拝領すると[8]、翌1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し、築城に着手した[8]1604年(慶長9年)に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する[9]


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