禊教
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禊教(みそぎきょう)身曾岐神社

設立1840年(天保11年)
設立者井上正鐵
種類宗教法人
本部山梨県北杜市小淵沢町上笹尾3401
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度51分46.1秒 東経138度20分12.5秒 / 北緯35.862806度 東経138.336806度 / 35.862806; 138.336806座標: 北緯35度51分46.1秒 東経138度20分12.5秒 / 北緯35.862806度 東経138.336806度 / 35.862806; 138.336806
教主坂田安儀
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禊教(みそぎきょう)は、禅、観相、医学、伯家神道を学んだ井上正鐵の教えを継承する教派神道の一派である。文部科学大臣所轄包括宗教法人
創始者

井上正鐵(いのうえまさかね。教祖)。1790年(寛政2)年8月4日、館林藩士・館林藩勘定方安東真鐵の子として江戸日本橋浜町にて生まれる。母方の縁者の養子に入り井上姓となる。父安藤真鐵は賀茂真淵の門人で、国学医術儒教仏教など修めた。神道の奥義も会得したが既に老齢であったため後人に伝えることができず、正鐵に神道を究め世に広めるよう遺言したという。
歴史
教祖の修行時代

正鐵は青年期には禅宗1809年(文化6年)より磯野弘道より医学を学び、1814年(文化11年)からは観相家水野南北より観相学や相法調息を学んだ。諸国を巡って農業技術なども身に付けたという。1833年(天保4年)、下谷池之端に住む老婆より神道の教説を聞き、父の遺言に従い神道を究めることを志し、翌1834年(天保5年)、白川伯王家に入門し伯家神道を修めた[1]1836年(天保7年)には白川伯王家から神拝式許状を得る[2]1838年(天保9年)には白川伯王家の神職許状と天津祝詞太祝詞三種祓等の奥旨皆伝を受けた。正鐵に師事する門弟は多く、中には明治維新後伊勢神宮宮司となる丹後宮津藩松平宗秀もいた。
教祖による布教

1840年(天保11年)4月15日、正鐵は武州足立郡梅田神明宮にて神職になり、布教を始める。禊教ではこれを立教としている。しかし翌1841年(天保12年)11月[1]寺社奉行より邪教(新義異流)の嫌疑がかけられ、妻の安西男也、門弟三浦隼人・智善夫妻とともに入牢[2]。三浦隼人は獄死したが、1842年(天保13年)2月、正鐵らは牢から出された。正鐵は教導していた内容を叙述し寺社奉行に差し出すよう命じられた。正鐵は『神道唯一問答書』(上下二巻。のちに禊教の第一教典となる)を著し提出したものの嫌疑は晴れず、同年11月再び入牢。1843年(天保14年)6月には三宅島流罪となった。松平宗秀や他の門弟が物資を送るなどして生活を支援し、正鐵は島から手紙(後に『遺訓集』(全七巻)として編纂され禊教の第二教典となる)を送って門弟を指導した。 正鐵は三宅島でも布教や医療活動を行ったが、1849年(嘉永2年)に同地で死去した[1]

正鐵の死後、門弟は布教を続けたが、正鐵同様に寺社奉行より邪教(新義異流)の嫌疑がかけられた。1862年(文久2年)、門弟で足立郡保木間村の名主であったという坂田正安・鐵安父子は江戸所払となった。坂田父子は京都に赴いて白川伯王家に入門し、その御内人(家来)となった。正鐵の門弟は各地に相当数いたためなおも布教が続き、幕末には複数の団体が独自に活動していた[2]。門弟とその継承者は明治維新を経て二派に分かれることになる。
明治維新を経て教派神道へ

1869年(明治2年)、既に他界していた正鐵は赦免となり、門弟坂田父子の江戸所払も解かれた。門弟らは正鐵を教祖とする神道講社を興した。1872年(明治5年)、正鐵の門弟村越守一(坂田正安の実兄)の門弟で下野国芳賀郡小宅村・亀岡八幡宮宮司の東宮千別(とうぐうちわき)(1833年-1897年)を代表とする吐菩加美(とほかみ)講が教部省に公認され、村越鉄善(村越守一・坂田正安の実弟で同じく正鐵の門弟村越治郎一正久の次男。東宮千別とともに村越守一に師事。のち長兄村越鉄久の養子)らとともに布教を開始した。翌年には「身禊講社」と改称する[3]。しかし幕末以来の経緯から傘下の教会が独自に活動しており、正鐵門弟とその継承者は一つの組織にまとまらず、更に正鐵の改葬などを巡っても意見が対立した。坂田鐵安は1874年(明治7年)、身禊講社内部に「惟神(いしん)教会」を組織。1879年(明治12年)12月12日には、明治天皇から正鐵に「井上神社」の社号が賜与され、坂田鐵安は正鐵を祭神とする井上神社を下谷西町(現・東京都台東区東上野)に建立。1880年(明治13年)、惟神教会は「身禊講社」の後身「禊教事務局」から離脱し、神道大社教(1946年(昭和21年)、出雲大社教に改称)所属の「惟神教会禊社」として独立し、下谷西町に本院を建立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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