禅定院_(徳川綱條側室)
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禅定院(ぜんじょういん、寛文元年(1661年[1] - 元禄14年12月16日[2]1702年1月13日))は、水戸藩第3代藩主・徳川綱條側室徳川吉孚の生母。名はつれ(都禮、津禮、津連、おつれの御方、おツレの方)。禅定院夫人、禅定院尼公とも称される。
生涯

落合老慶の娘として水戸領内にて生まれる。天和年間に水戸藩主徳川光圀に仕えたが、容貌が優れていたため、江戸在住の綱條の側室となり吉孚ら三男二女を生む[3]元禄14年(1702年)に41歳[4]で死去。法号は禅定院妙達月法大姉[3]瑞龍山に葬られた[5]が、現水戸市元吉田の日蓮宗蓮乗寺にも墓所があったという[6]
家系

禅定院の母・寅[7]は水戸城下に近い大串村(現水戸市大串町)の農夫・人見甚之丞[8]の娘で、おばの夫・谷田部忠勝の養女となり[9]、落合茂道に嫁ぎ一女二男(辰[10]・落合道候・道可[11])を生んだ。茂道の死後落合家に岡崎七右衛門[12]が婿入りし落合治左衛門(後に老慶[13]と号する)と名乗り、寅との間に一男一女(岡崎保宗・つれ)を設けた。この娘が後の禅定院である。なお、寅は後に落飾し智栄尼と称し、宝永2年(1705年)に85歳[4]で死去した。院号は本光院[14]

禅定院の同母兄弟(落合道候・岡崎保宗)はいずれも水戸藩士に取り立てられ[15]、嗣子の無かった道候の後を弟の道可(茂重)の子が継いだ[16]

禅定院の母方の祖父人見甚之丞が勧請し禅定院も崇敬していた大串村の稲荷の小祠は、宝永元年(1704年)に徳川綱條によって社殿が造営され神社となり人見氏が神主となった[17]。この稲荷神社は社領一七石を有する近辺二一ヶ村の総鎮守となり、社殿の修理や祭礼は水戸藩主が行ったという[18]

水府系纂』所収の岡崎家の系図によると落合老慶(岡崎七右衛門)の父は岡崎彦兵衛、その父は岡崎頼保[19]となっている[20]

落合家は『水府系纂』・『諸家系図纂』いずれも近江佐々木氏出身[21]としているが、これらの系図の江戸時代以前の内容を裏付ける史料はない[22]。『諸家系図纂』の「落合氏系図」に見える鑑円[23]は、多賀郡下手綱村(現茨城県高萩市)の大高寺[24]の住職で、元禄年中に徳川光圀の助力を得て参内し「円山上人」という上人号を勅許されている[25]
脚注^ 生年は「谷田部氏系図」の没年から逆算した。
^ 「水戸紀年」による。「谷田部氏系図」では12月4日。
^ a b 『修水府名族伝料』。
^ a b 「谷田部氏系図」。
^ 「谷田部氏系図」及び『修水府名族伝料』。
^ 「水府地理温古録」206ページ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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