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禁教令(きんきょうれい)は、ある宗教を信仰し布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、キリスト教禁止令(キリシタン禁制、禁令)とも呼ばれる。交付した禁教令の内容は、「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」と激しく糾弾するものである[1]。禁制扱いになった宗教は邪宗門と呼ばれた。
通常、単に禁教令と言った場合には、日本で慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)[2]に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。世界においては、ローマ帝国におけるネロやディオクレティアヌスなどの皇帝によるキリスト教禁止の勅令と、それに伴う弾圧が知られているが、一般にはキリスト教徒に対する弾圧、迫害と一括りに呼ばれ、禁教令の語を充てない(例えばディオクレティアヌスによる303年の勅令と、それに伴う弾圧は「最後の大迫害」と呼ばれる)。
本項では、江戸時代のキリスト教政策を中心に、安土桃山時代以降の日本で行われた、カトリック教会への禁教令および関連する事項について説明する。 狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が発令したものである。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年(1569年)に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが、織田信長によるカトリック教会の保護政策もあって、さほど効果はなかった。 これらは一口に禁教令と言っても性格は大きく異なる。正親町天皇の追放令やバテレン追放令は、その語が示すように、宣教師の追放を目的とした主に布教権の禁止であり、キリスト教自体への弾圧は主目的ではなく、キリスト教徒に対する強制改宗というような(つまり「禁教」)政策は取られなかった。 秀吉のバテレン追放令や書簡は[3]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[4]、神国思想を意識的に構築しており、家康もその基本路線を踏襲している[5][6][7]。秀吉の書簡や家康の禁教令はキリスト教を、統一された日本の宗教(儒教、神道、仏教の三教一致)の敵であると名指しで批判して、禁教令の正当性を示そうとしており[注釈 1][8][9][10]、秀吉と江戸幕府の宗教政策には禁教令の観点から継続性が見られる。 今日に知られるような弾圧と呼べるものの最も早いものは、豊臣秀吉が1596年に出した禁教令で、この時は26名のキリスト教徒が処刑されている(日本二十六聖人)。ただし、この時も主にはフランシスコ会に的を絞った物で、禁教のための継続的な政策が取られたわけではなく、後を継いだ江戸幕府もそれに倣っている。 日本において、政策としてキリスト教への弾圧が始まるのは、1612年の禁教令からであり、明治初期まで続いた。 織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限を表明する。これは宣教師(バテレン)の国外退去を求めるものであったが、布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、また(強制性を伴わない限りにおいて)個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていた。大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、高山右近が信仰のために地位を捨てるということもあった。一方で小西行長や有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。 また退去を宣告された宣教師たちも抗議を行うなどして、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。結果として、追放令以後も宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。むしろ、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。 秀吉が禁教令を発令した目的には諸説あり、「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「九州で日本人の奴隷売買が行われている[注釈 4]と知り、それを禁止させるため」[注釈 2][注釈 3]「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}キリスト教徒による神社仏閣への迫害[要検証 – ノート][注釈 6]」などがある。ヨーロッパは日本の植民地化をもくろんでいて、キリスト教はその尖兵
概要
豊臣秀吉による禁教令
1587年の禁教令(バテレン追放令)詳細は「バテレン追放令」を参照
これらの発令の原因とされる諸説は日本で提案されているもので、ポルトガルやイエズス会は現存しているにも関わらず、日本人による一方的な批判によって構成されている。「神社仏閣への迫害」説[注釈 6]については、仏教徒の領主が十字架を倒す等の宗教施設の破壊行為を行いキリスト教徒に対して仏教に強制改宗するように命じたり[26]、1563年十一月七日頃[27]、修道院やキリシタンの農民たちの家を燃やす事件を起こす[28]等、双方の信者間での対立関係が激化していた。神社仏閣の破壊についてはイエズス会の責任者は寺社の破壊を禁じていた[31]。「仏教と暴力」も参照
奴隷や人身売買を原因とする説[注釈 4]については、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[33][34]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。