神風特別攻撃隊
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この項目では、制度上の神風特別攻撃隊について説明しています。特攻全般については「特別攻撃隊」を、日本陸軍における対艦船の航空特攻隊については「と号部隊」をご覧ください。
1945年3月21日、戦友の遺骨を抱いて出撃する神風特攻隊神雷部隊三橋謙太郎大尉1945年5月11日に空母バンカーヒルに突入した神風特別攻撃隊「第7昭和隊」小川清少尉空母「エセックス」に突入を試みる神風特別攻撃隊「香取隊」山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗の彗星艦爆(白黒写真に着色)

神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:神󠄀風特別攻?隊󠄁)は、第二次大戦大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画訓読みの「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した[11]昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返し、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与え、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」とも評された[12]

本土決戦に備えて白兵戦を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が昭和20年(1945年)に組織されたほか[13]大日本帝国陸軍と号部隊を含む特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。
制度

捷号作戦時に大西瀧治郎中将によって定められた神風特別攻撃隊の編成、隊員の扱いは次の通り。神風特別攻撃隊は爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成し、一攻撃単位の編成基準は概ね、爆装体当たり攻撃隊を爆戦(爆装戦闘機)、艦爆(艦上爆撃機)、水爆による3?4機、掩護ならびに戦果確認部隊は戦闘機、艦偵(艦上偵察機)2?3機。隊名は編成時期、ならびに爆装の機種により、第一、第二神風特別攻撃隊と呼称し、さらに各攻撃単位に対し、特別隊名を付与する。隊名は第一聯合基地航空部隊指揮官が命名する。隊員の官職氏名は事前に発表せず、任務を完遂したもののみ事後に発表する。一攻撃単位の全機が未帰還で不明の場合で完遂したと推定されるもの、直掩隊で任務中自爆したと推定される者は完遂した者と同じ取り扱いとする。正式発表(報告)は各司令官、司令の報告に基づき、認定の上、第一聯合基地航空部隊司令部において行う[14]

神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、最初の出撃となったフィリピンの戦いでは、そのように動いたが、フィリピンの戦いはそのまま長期化したため(「フィリピンの戦い (1944-1945年)」参照)、目標を敵主要艦船に広げ、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[15]

最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。元々、零戦は反跳爆撃の訓練に使用されていたため、250キロ爆弾を搭載することができたので、特攻用への改修は、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、それは体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾が使用されることになり、艦爆その他も特攻に使われるが、航空機に特別な工作を必要とするものではなかった[16]
歴史
創設まで大西瀧治郎城英一郎

大西瀧治郎が創設した神風特別攻撃隊は城英一郎の研究を着想にしている[17]霞ヶ浦海軍航空隊山本五十六・大西・城は親密な関係にあった[18]。また、城英一郎は1926年大正15年)8月20日に結婚しており、これにより山本栄少佐(山本も同時期に霞ヶ浦海軍航空隊所属)の義弟となった[18]。山本栄は最初の神風特別攻撃隊が編成された第二〇一海軍航空隊司令である[18]

1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く[19]。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した[19][20]1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った[21][22]

1941年(昭和16年)12月、大東亜戦争が勃発。1943年(昭和18年)2月中旬頃、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み、春頃に「B-29対策委員会」を設置した[23]。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している[23][注 2]

1943年4月18日、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)が戦死した[24][25]。同年6月5日城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列[20][26]


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