神野正英
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神野正英

選手情報
ラテン文字Masahide Jinno
国籍 日本
競技トラック競技 (短距離走)
種目100m, 200m
大学日本大学
生年月日 (1948-08-07) 1948年8月7日(75歳)
出身地高知県
身長174cm
体重72kg
成績
オリンピック100m 1次予選6組6着 (1976年)
地域大会決勝アジア競技大会
100m 優勝 (1970年)
200m 2位 (1970年)
4x100mR 2位 (1970年)
自己ベスト
100m10秒48 (1975年)

獲得メダル

陸上競技
日本
アジア競技大会
1970 バンコク100m
1970 バンコク200m
1970 バンコク4×100mR
1974 テヘラン100m
アジア陸上競技選手権大会
金1975 ソウル4×100mR
銀1975 ソウル100m


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神野 正英(じんの まさひで、1948年8月7日 - )は日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走高知県出身。
経歴

中学時代から陸上競技を始める。当初は走幅跳の選手だった[1]。高知市立高知西部中学校の1期生で、当時校庭が小学校と併用だったため練習場所が限られ、助走路と砂場だけが確保できた走幅跳をおこなったという[2]。中学3年だった1963年に県の大会で6メートル67センチを記録し、中学ランキングで3位だった[1][2]。一方で短距離走もおこない、同じ中学3年生の6月に高知中学通信競技選手権大会で11秒5を出した(1か月前には12秒5だった)ことで自らのスピードを自覚したという[2]

高知高等学校に進学する[2]。高校時代も走幅跳を続け、2年生の時には第20回国民体育大会に7メートル18センチで優勝し、この年の自己ベストは7メートル20センチで、追い風参考で7メートル41センチを記録したこともあった[2][注釈 1]。100メートルでは1年生で11秒0、2年生で10秒9、3年生の時には10秒7まで伸ばした[2]全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)では100メートルに11秒0(手動計時)で3位入賞を果たす[1]

走幅跳をやめた理由と時期について、1973年の『陸上競技マガジン』の記事では高校の指導者から大学進学に際して「今後は100メートル1本にしぼれ」とアドバイスされ、「強い人がたくさんいた」と判断してやめたとしている[2]のに対し、保阪正康の1984年の著書では「3年生のときに腰を痛めたため短距離走に転向した」としている[1]。1967年に日本大学に進学。1年生の日本陸上競技選手権大会では6着に入賞する[2]

2年生の1968年、6月1日のスポニチ陸上競技大会の100メートルで飯島秀雄(当時茨城県庁職員)と同タイム(10秒7)の2着となる[2][注釈 2]。9月の日本陸上競技選手権大会の100メートルでは飯島を抑えて初優勝する[2]。しかし、メキシコシティーオリンピック日本代表には神野ではなく実績のある飯島が選ばれた[3]。神野が選ばれなかった理由は「標準記録の10秒3を出していない」ということだった[2][注釈 3]

以後、大学を卒業して新日本製鐵に入社した1971年まで4連覇を達成する[4]。この間、1970年には1970年夏季ユニバーシアードトリノ)に日本代表として出場した(100メートルは準決勝敗退)のち、アジア競技大会(バンコク)の100メートルで優勝した(この種目での日本人優勝者は、神野のあと1998年伊東浩司まで出現しなかった)[2][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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