神道の歴史
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神道の歴史(しんとうのれきし)では、日本宗教である神道の歴史について概説する。

神道とは何か、どこまでの範囲を神道に含めるのか、といったことは専門家の間でも定説を見ておらず、神道の歴史がどこから始まるかについても定説は存在しない。神道学者岡田莊司は、神道は弥生時代から古墳時代までにその「淵源」が完成したとした上で、体系的な「神道」の成立時期については、
7世紀律令体制とともに成立したとする説(岡田莊司ら)

8-9世紀に朝廷において「神道」の自覚が生まれ成立したとする説(高取正男ら)

11-12世紀の院政期に地方に神道意識が浸透して成立したとする説(井上寛司ら)

15世紀吉田神道の創始をもって成立したとする説(黒田俊雄ら)

の、主として4説が存在するとしている[1]。ここでは、特定の説に依拠しない立場に基づき、神道の淵源からその歴史を俯瞰する。
概要

宗教としての神道の始期に定説はないものの、その淵源は古代日本にさかのぼる。縄文時代の終わりから弥生時代にかけて伝来した稲作に基づき、自然をと一体とみる自然信仰日本列島に生じたのが始まりである。こうした信仰は、古墳時代大和王権によって国家祭祀として列島各地に広められた。最初期の神社である宗像大社大神神社などで祭祀が行われ、神道の原型が形成された。飛鳥時代に入ると律令の整備に伴い祭祀制度・社殿・祭式の整備が進み、行政機関として神祇官が関与する律令祭祀が形成される。祭祀制度における祭祀の管理や運営の規定などはの祀令が参考にされた。続く奈良時代にかけて国史とともに日本神話として『古事記』『日本書紀』が編纂され、祭祀と天皇家が結びつけられた。さらに、平安時代には律令制の弛緩に伴い、神祇官を介さずに天皇やその近臣が直接地方の神社の祭祀に関与するようになった。このほか、古代の日本ではこうした神に対する信仰に仏教信仰が融合する神仏習合という現象が起きたが、一方で祭祀儀礼の面では仏教と一線を画す神仏隔離の思想も見られた。また、修験道陰陽道といった信仰が日本に成立し、これらも神道に影響を与えた。

中世には、神道の教義化・内面化の動きが広まる。鎌倉時代には、鎌倉幕府崇敬によって各地の神社が保護され、庶民の間では古代に盛んだった地域ごとの信仰に代わって熊野八幡稲荷伊勢天神といった神々が地域を越えて広く信仰されるようになった。こうした神道の普及の中で、知識階層では密教僧による両部神道に端を発して仏教理論を用いた神道の解釈が試みられ、神は仏の化身であるとする本地垂迹説などが唱えられた。これに対し、危機感を抱く神社の側からは、元寇勝利後の神国思想の高まりを背景に神を仏よりも優位に置いた神本仏迹説などの体系化が図られ、神道五部書を基本経典とする伊勢神道が成立した。さらに、室町時代に起こった応仁の乱によって多くの古典籍を喪失した吉田兼倶は、これを機に経典の偽作などを通じて仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つはじめての神道説である吉田神道を創り上げることに成功した。吉田神道は戦乱の時代の社会不安も手伝って急速に台頭し、上流階級を中心に広く受け入れられ、神道界の中心となった。戦国時代から安土桃山時代には、戦国大名を神として祀る神社の創建に吉田神道が関わった。

日本における近世の大部分をなす江戸時代には、江戸幕府によって神社行政が再編され、治安や交通の改善によって庶民の伊勢神宮などへの参詣や庶民祭礼が活発化した。一方、国教的な地位についた仏教は、思想としては停滞期にあった。こうした中で、江戸時代前期には仏教を批判する立場から主流の神道説は儒教朱子学との結びつきを強め、垂加神道などの儒家神道へと移行した。江戸時代中期になると歌学や語学といった日本の古典の実証的研究に神道を統合した国学が発展し、儒家神道に代わって隆盛をみせた。国学者の本居宣長は、中国由来の仏教や儒教の教義に寄せて神道を解釈することを強く批判し、実証的な神典研究を行うことを主張した。こうした宣長の神学は、江戸時代後期になると平田篤胤復古神道に批判的に継承された。復古神道では、キリスト教から影響を受けて死後の世界を重視したほか、中国神話インド神話キリスト教神話など世界各地の神話は日本神話の訛りであると主張し、その後の王政復古に関わった。一方、水戸藩では、儒教を排した宣長を批判し、忠孝仁義といった儒教の倫理観に国学を統合した後期水戸学が展開された。後期水戸学は、儒教と神道とを結びつけることで天皇による日本の統治を主張し、幕末の志士たちの思想の苗床となった。

倒幕運動によって日本が近代へ向けて歩みだすと、王政復古の大号令により、神道と政治とを結びつける祭政一致が新政府の目標とされた。大教宣布の詔に基づいて神道の布教が行われたほか、神仏判然令によって神仏分離が図られ、一部では寺院や仏像の破毀による廃仏毀釈が行われた。続いて明治政府は、国家の宗祀として国家が神社を管理する国家神道体制を形成した。その後、政教分離の観点から祭政一致派が追放されると、神社は宗教ではないという定義づけによって公的な性格を付与する神社非宗教論が採られ、さらには地方の神社は公的支出から切り離されていった。これに対し、神職らは全国神職会を組織し、政府に対して公的支出などを求める神祇官興復運動を起こした。また、神社を非宗教として神道思想の表明を放棄させた国家神道体制に対しては、在野の神職や神道思想家から非難の声が上がり、民間の神道集団として教派神道13派が勢力を築いた。第二次世界大戦終結後、GHQによる神道指令によって、国家主義的イデオロギーの根源とされた国家神道体制が解体され、神社は神社本庁を包括団体とする宗教法人へと移行した。こうして神社は現代において公的な立場を失ったものの、その後は自由な宗教活動によって経済的な繁栄を手にする神社も現れ、日本の年中行事人生儀礼において神道は一定の役割を果たしている。
古代
律令祭祀以前

縄文時代晩期から弥生時代にかけて、日本列島に稲作が伝わると、同時に稲作に基づく自然信仰も生じた。それは、自然と神を一体とみなし、神が自然災害という形で祟りを起こさないよう、捧げものを捧げたり祭祀を行うというものであった[2]神社建築との共通性が指摘される弥生時代の遺跡、池上曽根遺跡の高殿

弥生時代には、新たな墓制である方形周溝墓荒神谷遺跡などに代表される青銅器の祭祀、池上曽根遺跡の例のように後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ大規模な建物など、神社との連続性が指摘される事物が出土するとともに、鹿などの骨を焼いて占う卜骨が広範囲で出土したり、副葬品として鏡・剣・玉が用いられるなど、古事記日本書紀に見られる神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[3]。同時代の史料である魏志倭人伝においても、邪馬台国の女王卑弥呼が「鬼道を事とし、衆を惑わすこと能ふ」との記述が見られ、この「鬼道」がシャーマニズム的な要素が強い初期の神道であるとする説が有力である。なお、「鬼」「惑」などのようにネガティヴ的なニュアンスを持つ漢字が用いられたのは、儒教に内包される反迷信的な理念(子曰く「怪力乱神を語るべからず」-『論語』)による所が大きいと考えられる。

3世紀ごろ、大和地方の三輪山纏向遺跡が営まれはじめるとともに、箸墓古墳など初期の大規模な前方後円墳が登場してくることから、この頃に大和王権が成立したと考えられる。


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