神近市子
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日本政治家神近 市子かみちか いちこ
神近市子(1956年刊の『現代女傑論』より。)
生年月日1888年6月6日
出生地長崎県北松浦郡佐々村
没年月日 (1981-08-01) 1981年8月1日(93歳没)
出身校女子英学塾
(現・津田塾大学)
前職青森県立女学校教師
東京日日新聞記者
評論家
所属政党左派社会党(1953-55)→
日本社会党(1955-)
称号勲二等瑞宝章(1970年)
衆議院議員
選挙区東京都第5区
当選回数5回
在任期間1953年4月19日 - 1960年10月24日
1963年11月21日 - 1969年12月2日
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神近 市子(かみちか いちこ、本名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日[1])は、長崎県出身の日本ジャーナリスト婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた[2]
生涯

長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。津田女子英学塾卒。在学中に青鞜社に参加する。弘前県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となった[3]

1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝に心を移したことから神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。裁判では市子は社会主義者ではないと弁明し、野枝に対する妬みを詳細に陳述した(日蔭茶屋事件)。

市子は出獄後、『女人藝術』に参加して寄稿したほか『婦人文藝』を創刊して文筆活動を開始した。1943年から1945年まで東京都南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・町田市能ヶ谷)に疎開したが、当時の市子は近衛文麿子飼いの反共テロリスト中溝多摩吉(防共護国団)の二号であった[4]

戦後、市子は1947年に民主婦人協会、自由人権協会設立に参加する。47年の第1回参議院議員通常選挙では全国区で落選したが、1953年第26回衆議院議員総選挙旧東京5区左派社会党より出馬して当選した。1955年社会党再統一により党内では左派に属し、計5回の当選を重ねたが1960年第29回衆議院議員総選挙では落選しているため、連続当選は3回までとなった。また1957年売春防止法成立にも尽力した。

1968年再審特例法案を作成。この法案は、GHQ統治下の裁判で死刑が確定した死刑囚に対して再審の道を開くことを目的としたもので、廃案になったものの法案提出を契機に個別に中央更生保護審査会による恩赦の審査が行われ、菅野村強盗殺人・放火事件の受刑者などが無期懲役に減刑となった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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