神経ガス
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神経ガスの一種サリンを充填するための容器 (M139 GB) で満たされたクラスター弾頭(アメリカ陸軍のMGR-1 オネスト・ジョン用M190弾頭)

神経ガス(しんけいガス)または神経剤(しんけいざい, Nerve agent)は有機リンの一種で、神経伝達を阻害する作用を持つ化合物の総称である[1]。神経伝達物質であるアセチルコリンを分解する酵素アセチルコリンエステラーゼの働きを阻害することにより、神経伝達を阻害する。慣習的に「神経剤」と呼ばれているが、脳内の中枢神経感覚神経に対する作用は弱く、実質的には筋肉の正常な動きをできなくするコリンエステラーゼ阻害剤[1]であるため、神経毒ではなく酵素毒に分類されることがある。化学兵器毒ガス)としても認知されており、国際連合から大量破壊兵器としての指定も受けている。1993年に締結され1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約により、多くの国で製造と保有が禁止されている。

曝露すると瞳孔の収縮、唾液過多、痙攣尿失禁便失禁などが毒性症状として表れ、最終的には呼吸器筋肉が麻痺し窒息死する。ある種の神経ガスは気化しやすい、あるいはエアロゾルになりやすい。体内への主要な侵入経路は呼吸器系であるが、皮膚からも吸収されるため、安全に取り扱うには防毒マスクのほかに全身を覆う化学防護服が必要となる。
生物学的な効果運動神経と筋肉の接合部位における正常な反応 神経終末 (1) の神経終末球にインパルスが伝わると、神経伝達物質アセチルコリンを含むシナプス小胞 (3) からアセチルコリンがシナプス間隙に放出される。筋肉側の形質膜 (2) 上にはアセチルコリン受容体 (4) が位置し、アセチルコリンを受け取ると、筋肉が収縮する。アセチルコリンはアセチルコリンエステラーゼによって即座に分解される。

名前の通り、人体の神経系を攻撃する。具体的には筋肉を収縮する神経伝達物質の伝達を阻害し、筋肉の活動を停止させてしまう。

神経ガスに曝露した時の初期症状としては、鼻水が出て、呼吸が苦しくなり、瞳孔が収縮するといったものがある。症状が重くなると呼吸困難となり、吐き気、唾液過多となる。さらに重くなると体全体が麻痺し、嘔吐や失禁などの全身症状が現れる。これらの症状は筋肉の収縮と痙攣が原因となっており、最終的には昏睡状態となり痙攣を起こして窒息死する。

神経ガスの影響は長期に渡り、累積性もある。死を免れた場合でも、一旦現れた障害は長期に渡って残存する。
作用機序

正常に機能している運動神経では神経伝達物質アセチルコリンが放出され、この刺激が筋肉や臓器に伝わることにより筋肉が収縮し、運動が制御されている。刺激が送られた後は、酵素アセチルコリンエステラーゼが刺激物質であるアセチルコリンを分解することにより、筋肉や臓器の運動指令を解除し筋肉を緩和させている。

体内に神経ガスが入ると、酵素アセチルコリンエステラーゼのアセチルコリン認識部位と神経ガス成分の間に共有結合を形成してしまい、その結果アセチルコリンの分解がストップし中枢神経系が混乱する。その間もアセチルコリンが分解されず増加し続けるため、結果的に神経信号が伝達されず筋肉の収縮が止まらない状態となる。

筋肉だけでなく分泌腺や臓器にもその影響が現れるため、よだれや涙、鼻水などが出る。
解毒剤

アトロピンやその誘導体はアセチルコリン受容体を塞ぐ、すなわち抗コリン作用を持つため解毒剤として用いられる。しかし受容体を塞ぐということはそれ自体が毒性を持つということでもある。

プラリドキシム塩化メチル(2-塩化パム)やプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)もまた解毒剤として知られている。これはアトロピンとは異なり、血流中で神経ガスを中和するという機構で作用している。安全であり、長時間効果を持続できる薬剤であると考えられている。

アメリカ軍等では、兵士の自己治療用として、自動注射器付きのMk1神経剤解毒剤キット等を準備している。
分類タブンの分子模型。橙色がリン原子

大きく分けるとG剤とV剤の2つに分類されるが、性質はどれも似ている。
G剤

ドイツの科学者によって発見されたところからGermanyの頭文字を取って「G剤」と命名された[2]。G剤に分類される化合物は全て第二次世界大戦、もしくはその直後にゲルハルト・シュラーダーによって初めて合成されたものである。

神経ガスの中では最も古い部類に入る。最初に合成されたのはタブン(1936年)であり、次いでサリン(1938年)、ソマン(1944年)、シクロサリン(1949年)が合成された。
V剤O-エチル-S-(2-ジイソプロピルアミノエチル)メチルホスホノチオラート(VXガス)の分子模型。橙色がリン原子

V剤は英語の Venomous(有毒な、の意)から命名された。VEVGVMVXの4種が存在する。V剤の中で最も研究が進んでいる VX は、イギリスポートンダウンで1952年に発見されアメリカで開発された。他の化合物についてはそれほど研究も進んでおらず、詳細な性質も不明である。VX ガスはサリンガスに比べてきわめて高い毒性を持っている。LD50 μg/Kg(ラット、呼気)で比較するとサリン420に対してVXは15であり単純計算すれば28倍の毒性を持つことになる。

分解しにくく洗い流しにくいため、衣服や物質の表面に長期に渡って付着するなど、持続的な毒性を持つ。またオイルに似た外見と物性のため、最も曝露しやすいのは皮膚となる。
その他

ノビチョク剤はソビエト連邦によって開発された比較的新しい神経ガスである。研究が進んでいないため、解毒や対処、検出などが難しいとされている。ただし、窒素爆弾のように実在しない可能性も高い。

また、アルキルquarternary salt N-methylcarbamate系の物質(カーバメート剤)も神経毒性が非常に強いため、神経ガスとしての研究がなされている。
殺虫剤

ジクロルボスマラチオンパラチオンといった有機リン系の殺虫剤は他の神経ガスと同じ作用機構を持っている。昆虫代謝哺乳類の代謝経路は異なるが、人間をはじめとする哺乳類に対しても影響があることが確認された。環境残留性があり、農業従事者や動物類がこれらの殺虫剤に長期に渡って曝露した際の影響は未調査である。多くの国で使用が制限されている。
歴史
神経ガスの発見

1936年12月23日、シュラーダーの研究グループが偶然発見したのが最初である。このグループによって発見された神経ガスはG剤と呼ばれている。

IG・ファルベンに所属するシュラーダーは、1934年からレバークーゼンの研究室で新しい殺虫剤を開発する仕事をしていたが、その際にタブンを合成した。

殺虫実験では、タブンは非常に強い効果を示した。5ppmのタブンが葉についたシラミを殺すことが確認された。そして1937年1月、シュラーダーは研究室の作業台にこぼした1滴のタブンが人間に対しても作用することを確認した。数分で実験助手が縮瞳、めまい、激しい息切れを起こし、完全な回復には3週間を要した。

1935年にはナチスにより軍事的に重要な発明はドイツ陸軍省に届け出なければならないという法令が出されたため、1937年5月にシュラーダーはタブンのサンプルをベルリンシュパンダウにあるドイツ陸軍省の化学兵器部門に送付した。その後ベルリンのドイツ国防軍化学研究室でシュラーダーによるデモンストレーションが行われ、シュラーダーの持つ特許と関連する研究が機密扱いとなった。化学兵器部門の責任者であるリュディガー (Rudiger) 大佐は軍事研究を進めるため新しい研究室の設立を命令し、シュラーダーもすぐに新研究室に移動した。新研究室はルール渓谷のヴッパータール=エルバーフェルト (Wuppertal-Elberfeld) に設立されたが、この研究は第二次世界大戦中は機密扱いとなった。

3つの化合物サリン、ソマン、タブンは新研究所で化学兵器として開発されたが、実戦で用いられることはなかった。シクロサリンは終戦後の1949年に開発された。
ナチスによる大量生産

1939年、リューネブルガーハイデのラウプカンマー森林地帯に位置し、ドイツ軍の実験場でもあるムンスター駐屯地に、タブン製造の先行プラントが設置された。続く1940年1月には暗号名ホッホヴェルク (Hochwerk) と名付けられた秘密プラントの建設が開始された。建設場所は現在のポーランドのブジェク・ドルニ (Brzeg Dolny) であり、シレジアヴロツワフから約40 km離れたオーデル川の辺りであった。


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