神田_(千代田区)
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神田(かんだ)は、東京都千代田区北東部の地区の地名である。旧東京市神田区
町名昭和初期の町名変更(東京市告示に基づく町区域の対照図)
関東大震災の復興計画により、神田区内のほぼ全域で区画整理が実施された。これに伴い1933年1月以降、大規模な町名地番整理も行われた。戦況の悪化などにより整理計画は中断されたまま、終戦・千代田区発足を迎える。神田地区における住居表示実施前後の町名町域対照地図

現在、神田を冠称する町名が多く見られるのは、千代田区発足時の町名変更の名残である。

1947年神田区麹町区と合併し千代田区が発足する際、神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされた(例、神保町を神田神保町に、岩本町を神田岩本町に変更。ただし、既に「神田」の名称が付いていた東神田西神田は町名変更されなかった。一方、麹町区内の町名については変更はなかった)。神田区の名前が消滅することを惜しむ住民の声に行政が応えたとも、麹町区と神田区に同じ町名(平河町)が存在するための便宜上の措置だったとも言われる(ただし、過去には「神田」を冠称する町名と冠称しない町名が混在しており、「神田」を冠称するものについては1911年にすべて省く町名変更が行われた。したがって、神田を冠称する町名が千代田区発足時にはじめて誕生したわけではない)。

名称の経緯が似ている。 → 日本橋赤坂麻布地区
「神田」を冠称する現町名


神田相生町

神田淡路町

神田和泉町

神田岩本町

神田小川町

神田鍛冶町


神田北乗物町

神田紺屋町

神田佐久間河岸

神田佐久間町

神田猿楽町

神田神保町


神田須田町

神田駿河台

神田多町

神田司町

神田富山町

神田錦町


神田西福田町

神田練塀町

神田花岡町

神田東紺屋町

神田東松下町


神田平河町

神田松永町

神田美倉町

神田三崎町

神田美土代町


「神田」を冠称しない現町名


内神田

外神田


西神田

東神田


岩本町

鍛冶町


一ツ橋(二丁目)

上記のうち、「神田」を冠称しない町域及び神田猿楽町、神田三崎町ではすべて住居表示が実施されているのに対し、「神田」を冠称する町域(神田猿楽町及び神田三崎町を除く)においては住居表示が実施されていない。住居表示を実施するたびに神田を冠称しない町名に変更がなされており(例、神田末広町・神田金沢町・神田旅籠町三丁目の各全域を外神田三丁目に変更)、かつての神田岩本町・神田鍛冶町の町域のうち、住居表示が実施された町域が岩本町・鍛冶町である。また、神田多町と神田司町に(二丁目が存在するにもかかわらず)一丁目が存在しないのは、住居表示実施に伴う町名変更により一丁目のみ消滅したためである(住居表示実施前後の町名町域対照地図を参照)。

2018年1月1日に、三崎町と猿楽町が「神田」を冠する町名に変更された[1]

町名の読み方は主に、起立や町名町域変更のたびに「東京市公報」によって告示された読み方が使われている。これによると、「神田○○町」のうち「かんだ○○まち」と読むのは「神田司町(かんだつかさまち)」「神田小川町(かんだおがわまち)」の2つで、その他は「かんだ○○ちょう」と読む。

この地区の地下鉄においては、「神田」を取り除いた町名が駅名に採用されている(岩本町駅末広町駅神保町駅淡路町駅小川町駅)。これは、千代田区発足前(「神田」を冠称しない町名時代)に敷設された路面電車(東京市電・のち都電)の停留所名とその位置を踏襲して地下鉄駅が建設されたことによる(例えば、神保町時代に神保町停留所が設置されたが、戦後、町名が神田神保町に変更されても停留所名は変わらなかった。その後の神田神保町時代、神保町停留所の位置に地下鉄神保町駅が建設されたが、町名が変更されても駅名はそのまま残った)。

外堀通り靖国通りなどの両側にまたがる町域において、地番を、道の片側の街区に偶数番、反対側の街区に奇数番をあてるという日本では変則的な付番をしているところがある(参考: 神田神保町#奇数番地と偶数番地)。
歴史

地名の由来については、神田(歴史用語)、神田明神の項を参照のこと。

元は、現在の大手町平将門首塚付近から神田山駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城城下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通りの北側地域を指すようになった。

江戸時代後期には、幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流剣術玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ、安政の大獄では多くの人物が処刑された。

千葉周作の道場(玄武館)

練武館

1878年(明治11年)、東京15区の一つとして神田区が成立。1889年市制の施行により東京市が発足し、東京市神田区となる。

明治維新後、旧幕府直轄地や護持院ヶ原などの火除地が接収され、そこに東京大学学習院東京外国語学校などの官立学校が設置され、さらに明治10年代から東京法学社専修学校英吉利法律学校明治法律学校日本法律学校といった主に法科経済科を中心とした私立学校が立ち始める。周辺には学生寮寄宿舎下宿が建ち、現在の靖国通り周辺の御茶ノ水神田駿河台エリアには法律図書などの専門書店が建って学生街が形成された。やがて学校は1903年専門学校令1919年大学令を経て大学となり(上記学校はそれぞれ法政専修中央明治日大の前身で「神田五大学」と呼ばれた[注釈 1])、文学系や自然系の他科も開設されさらに多くの学生を集めた。医科を開いた学校には病院も併設された。予備校も多く、東京大学や医学部といった難関大学向けのコースが多数設置されている。

1913年2月20日、神田一帯で三崎大火が発生し、2376戸が焼失する。この火災を契機に書店が出店するようになる[2]


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