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神田駿河台
町丁
御茶ノ水駅と神田川に架かる聖橋。向かって右側が神田駿河台(千代田区)。左側が湯島(文京区)。
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国 日本
都道府県 東京都
特別区 千代田区
地域神田地域
人口(2017年12月1日現在)[1]
? 合計568人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号101-0062[2]
市外局番03[3]
ナンバープレート品川
※座標は神田駿河台二丁目付近
神田駿河台(かんだするがだい)は、東京都千代田区の町名。住居表示は未実施。現行行政地名は神田駿河台一丁目から神田駿河台四丁目。郵便番号は101-0062[2]。
地理「駿河台」も参照
御茶ノ水駅の南側の地域である。千代田区・神田地域の北に位置し、文京区(本郷・湯島)との区境に当たる。「駿台(すんだい)」との略称も存在する。御茶ノ水駅周辺は大学や専門学校、予備校などの教育機関が集中しており、隣接する神田神保町・神田三崎町・湯島は日本最大の学生街を形成している。 元和2年(1616年)4月17日、徳川家康が駿府城で死去すると、家康に属していた「駿府詰」の家臣の多くが江戸に戻ってくるようになった[4]。幕府は、これら家臣の屋敷として、新しく開発されていた神田台を割り当てた(これら家臣のための宅地を開発する目的で、神田台の開発を行ったという説もある)[4]。神田台は駿府詰だった人々が多く住むようになり、駿河台と呼ぶようになったという[5]。 もとは本郷台地と連続していたが、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)の開削によって分離した[6][7][8][9][10]。また、削って下町を埋めたために、今では台地では無い所もある。 関東大震災の復興区画整理事業の第1号地となった。戦前の旧神田区時代は、明治の元勲である西園寺公望が私邸を構えるなど、山の手の住宅街として知られていたが、1970年代に入ると民家が主としてオフィスビル、店舗などに取って変わられ現在では住宅の存在が稀になった。 1960年代には御茶ノ水駅から本郷通り沿い周辺を中心として学生相手の店が多くなり始めた事もあって日本のカルチェ・ラタンと呼ばれた[11]。
河川
神田川(仙台堀) - お茶の水橋・聖橋が架かる。
歴史
地名の由来
沿革
年表
1878年(明治11年)11月2日 - 郡区町村編制法施行により、駿河台南甲賀町、駿河台北甲賀町、駿河台袋町、駿河台東紅梅町、駿河台西紅梅町、駿河台鈴木町が東京府神田区に編入される。
1933年(昭和8年) - 関東大震災後の市区改正により町名改正を行う。
駿河台南甲賀町→神田駿河台一丁目・二丁目に編入
駿河台北甲賀町→神田駿河台一丁目・三丁目に編入
駿河台袋町→神田駿河台一丁目・二丁目に編入
駿河台東紅梅町→神田駿河台四丁目に編入
駿河台西紅梅町→神田駿河台二丁目に編入
駿河台鈴木町→大部分を神田駿河台二丁目に編入
淡路町一丁目→一部を神田駿河台三丁目に編入
淡路町二丁目→一部を神田駿河台四丁目に編入
裏猿楽町→一部を神田駿河台二丁目に編入
猿楽町三丁目→一部を神田駿河台二丁目に編入
1934年(昭和9年)