神田神保町
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この項目では、書店街として著名な東京の(神田)神保町について説明しています。そのほかの神保町については「神保町」をご覧ください。
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神田神保町
町丁
神田神保町一丁目
(2021年4月22日)
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分46.11秒 東経139度45分27.94秒 / 北緯35.6961417度 東経139.7577611度 / 35.6961417; 139.7577611
日本
都道府県 東京
特別区 千代田区
地域神田地域
人口(2017年(平成29年)12月1日時点)[1]
 ? 合計3,205人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号101-0051[2]
市外局番03[3]
ナンバープレート品川

神田神保町(かんだじんぼうちょう)は、東京都千代田区の地名。住居表示未実施。現行行政地名は神田神保町一丁目から神田神保町三丁目。郵便番号は101-0051[2]書店街として知られる(「神田古書店街」も参照」)[4]幕臣神保長治の屋敷があったことに由来する地名。
概要・地理

東京都千代田区北部に位置し、神田地域に属する。北で西神田、北東で神田猿楽町、東で神田駿河台、南東で神田小川町、南で神田錦町一ツ橋、南西で九段南、西で九段北と接する。中心部には、東西に神保町西隣の靖国神社前を通る靖国通りが、南北に白山通りが通る。この2つの交差地点が神保町交差点である。多くの書店出版社、出版問屋の取次店が所在し、世界最大規模の書店・古書店街神田古書店街)として知られている。これら書店は下記の理由により靖国通りやすずらん通りの南側に多く立地する。対面となる北側にはスポーツ用品店や登山用品店、飲食店が多く立ち並んでおり、古書以外にも、スキー用品やカレーライスのメッカとしてもマスコミに取り上げられることがある。靖国通り明大通りの交わる駿河台下交差点を境に、楽器店街の御茶ノ水とスポーツ用品店街の神田小川町に隣接しており、商業地として賑わっている。その他、プロテスタントメソジスト)系キリスト教会救世軍日本本営・神田小隊がある。専修大学黒門

神保町とその周辺には、学校・予備校などが多い。明治大学法政大学日本大学専修大学東京医科歯科大学順天堂大学共立女子大学駿台予備校大原簿記学校TACLECなどがあり、学生街としても機能している。かつては東京商科大学國學院大學、また1970年代までは中央大学もこの地にあった。法律学校を興りとする明治・中央・法政・日大・専修の各大学は神田に集った各校として「神田5大学」と呼ばれていた。特に明治、中央、日大、専修が軒を連ねる街並みは、フランスの首都パリカルチエ・ラタンに因んで「日本のカルチェ・ラタン」として知られた。その中には、関東大震災太平洋戦争戦災学生運動、校地拡大や工場等制限法の規制などにより郊外に移転した大学もあるものの、公式に認められている名称であり、今日においても使用されている。こうした地域性から安価な飲食店が多く立ち並んでいる。また、メインストリートから脇道に入ると今川小路など伝統的な江戸の町人地を今に伝える路地を軸とした低層建築が集まる地域となっている。

近年は大学校舎の高層化や、再開発による高層ビルマンションの建設で街並みも変貌を遂げつつある。小学館集英社の本社がある一ツ橋に隣接しており、神保町内にも多数の出版社が所在している。

かつては映画館が多数存在したが、ほとんどが閉館し、長らく「岩波ホール」(2022年7月29日閉館)1館のみとなっていた。しかし2007年7月7日神保町シアタービルがオープンし、小学館が運営するミニシアター映画館の「神保町シアター」と吉本興業運営の「神保町花月」が入居した。そのうち、「神保町花月」は2019年12月24日に閉館し、翌2020年1月29日に「神保町よしもと漫才劇場」へと鞍替えした。
書店街・古書店街靖国通り沿いには古書店が多く立ち並ぶ駿河台下交差点から神田すずらん通り方向を望む(2011年12月25日)。画像左の書泉ブックマートは2015年9月30日に閉店。同所にはABCマートが開店した。「神田古書店街」も参照

神田古本まつりや神保町ブックフェスティバル等、に関するイベントも毎年行われている世界最大級の書店街である。特に古書店が多く、古書店街としても世界最大級である。神保町最大の書店は三省堂書店神保町本店で、神保町のランドマーク的存在ともなっており、神保町は三省堂書店創業の地でもある。その他の大規模店舗としては、「グランデ」「ブックタワー」の書籍チェーンを展開する書泉東京堂書店も所在するが、大部分の店舗は、専門性のある著名な店舗であっても、小規模な書店・古書店である。

古書店の多くは靖国通り沿いに在り、それら多くは通りの南側に即ち北向きに建っている。これは日光が当たって本が傷むのを防ぐためのしきたりである。靖国通り開通以前のメインストリートだった神保町すずらん通り沿いの古書店もほぼ北向きに立っている。三省堂書店もかつてはすずらん通り側(「けやき広場」側)が正面となっていた。

三省堂神保町本店

神田古書店街

2019年第29回神保町ブックフェスティバル 駿河台下交差点から神田すずらん通りを望む

2019年第60回東京名物神田古本まつり 神保町交差点会場の様子

飲食店街タンゴがかかる老舗喫茶店(2008年1月)

神田地区においては神田駅ほどではないが、飲食店も多い。2000年以降はカレー専門店が増え、カレー激戦区ともいわれる[5]。神田・神保町エリアには400店近くのカレー店が密集しており、毎年神田カレーのNo1を決める「神田カレーグランプリ」が開催されている。フランチャイズチェーンなどによる飲食店も増加しており、従来からの店を含め天麩羅類、洋食中華など、各種の飲食店が営業をしている。またラドリオミロンガなどの喫茶店が多いのも特徴で、「文豪が通った」とされる店もある。
奇数番地と偶数番地

神田神保町の現在の町域は、1934年1月1日の区画整理により誕生した。この区画整理は現在の靖国通りの拡幅工事と並行して行われ、神田神保町の地番の数字を新たに割り当てる際、靖国通りより南では奇数を、北では偶数を、靖国通り側から順に割り当てた。このような通りの両側での奇数・偶数の使い分けは、住居番号の付け方として日本以外では一般的なものである。

靖国通り沿いは現在でも住居表示が行われておらず、依然として上記の地番によって住所を表現している。このため、住所を見るだけで靖国通りの南北どちらに位置するのか、靖国通りからどれくらい離れているのかを直感的に把握できる。

住居表示の街区表示板と同機能のものを、町会が独自に設置している地区もある。

町名と番地が記載されている電柱広告

町会が設置した町名と番地の表示

偶数番地区であることを明記したものもある

多くは交差点に設置(画面左40番地、画面右42番地の表示)

歴史
地名の由来

神保町は江戸城(現在の皇居)の北側に位置し、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた。「神保町」の名は、戦国大名越中神保氏の一族である旗本神保長治の屋敷があったことに由来する。屋敷前の道は「神保小路」と呼ばれていた[6][7]
明治以降1934年頃の神田神保町の古書店街(撮影:1934年2月、石川光陽

江戸東京府となった後の1872年(明治5年)、現在の神保町一丁目に「表神保町」「裏神保町」と「猿楽町」が、神保町二丁目に「北神保町」と「南神保町」が置かれた[8]。「裏神保町」は1922年(大正11年)に「通(とおり)神保町」へ改称された[7]

1913年(大正2年)、当時は小川町を広域地名としていたこの辺り一帯が、大火で焼失した。神田高等女学校(現:神田女学園中学校・高等学校)教員だった岩波茂雄が焼け跡に古書店を開き、同店内で夏目漱石の作品や『哲学叢書』の出版販売も行って大成功を収めた。これが岩波書店の起こり。

岩波の成功により教養人・大学生が神保町に足を運ぶようになったため、以後、一誠堂古書店、東京堂等の店舗新設が見られ、また読書の場を供すべくカフェを開業する者が相次いだ。

1921年(大正10年)、神田区駿河台に「文化学院」が開校。音楽・美術・舞踊など芸術関係書が、濃紺くるみの学術書やけばけばしい猥雑本とともに書店の軒先に彩りを添えるようになり、「ない本はない」と言われた。関東大震災後、復興事業として一大舗装道路「大正通り」(現:靖国通り)が完成すると、交差点名として「神保町」が登場、昭和後期には今日の様な景観を呈し始めた。

1934年(昭和9年)、震災後の復興に伴う土地区画整理事業により、「表神保町」「通神保町」および靖国通り北側の「表猿楽町」を併せて「神保町一丁目」とし、「南神保町」と「一ツ橋通町の一部」および靖国通り北側の「北神保町」ならびに「中猿楽町」を併せて「神保町二丁目」、今川小路一丁目?三丁目が神保町三丁目となる。

司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』によれば、太平洋戦争中、アメリカ軍が「神保町の古書が焼失することは、文化的に極めて大きな損失である」として、この一帯のみ空襲を避けたという。しかしこの説は都市伝説だともいわれており、確証は疑問である。

1987年バブル期の頃は、地価高騰の中で都心にもかかわらず地価に割安感があったため、神保町の各店舗が地上げ屋の格好のターゲットとなり、放火などの事件も発生した。


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